見出し画像

空が晴れている気持ち

例えば、文章によってある風景の描写を読む。食べ物の味に関する描写を読む。心が動いた時の描写を読む。風が吹いたとか、懐かしい味だった、とか嬉しいとか。言葉によって、そこに起きている現象が書き表されている。もっと詳しく、「晩ご飯の匂いがする風がどこからか吹いてきた」のように記述を重ねることができる。どんな匂いなのだろう。カレーの匂いだった。どこでその匂いを嗅いだのだろう。自分の家の周りを散歩している時だった…。

書かれたものを読むとき、記述が詳しければ詳しいほど、その状況を具体的に想像することができる。物語を読んだり、誰かが書いたエッセイを読んだりすると、自分がその場にいないのにもかかわらず、文章に書かれていることを体験したかのように想像することができる。

そのときに、どんなことが起こっているのだろう。

さっきの、カレーの匂いがどこからか漂ってきた、例で考えてみる。確かにこれを読んだ人はカレーの匂いを想像したかもしれない。しかし、それはどんなカレーの匂いだっただろうか。あなたが、よく知っているカレーの匂いであるに違いない。しかし、文章のどこにもそんなことは書かれていない。ただ、「カレーの匂いがする。」とあるだけである。にもかかわらず、それを想像する場合には具体的なカレーの匂いを呼び出さなくてはならない。

これを書いた人が実際に嗅いだ匂いと、これを読んだ人が頭の中で想像した匂いは違うだろう。完全に一致することはないだろう。

書いた人が、完全に自分がした体験、自分の見ていることを文章においてそのまま同じように書き表すことはできない。どれだけ、言葉を重ねたとしても、歩いているときに嗅いだ夕食の匂いがする風を読者にそのまま伝えることはできない。本当にそうしたかったら、自分の鼻の細胞を刺激した夕食の匂いの分子を持ってくるぐらいしないといけない。

風景の描写も、感情の描写もそうである。書いた人と同じ場所、そして同じ心の動きを読んだ人にそのまま伝えることはできない。

そこでさらに、不思議なのは、それでもなお私たちは何かを表現してきたということだ。自分の見たものを、体験したことを言葉にし、絵画にし、音楽にし、身体表現として表してきた。そのどれにでも、先ほど述べたような限界があるのにもかかわらず、はるか昔から表現されてきた。そしてこれからもそうであるだろう。

だから、今さら書かれた言葉に限界がある、と言われて困る人はいない。

しかし、どうして私たちは困らずに済んでいるのか。それなのになぜ、他人の書いたものに心を動かされるのか。どうして、全く同じ体験をしたわけでのないのに、その人のように泣き、喜び、怒り、悲しむことができるのか。

言葉によって、全く同じ現象そのものを伝えられないのならば、言葉によって私たちが共有しているものは何なのか。

おそらく、カレーの匂いがする、と書いた人は読んだ人が自分と全く同じ匂いを想像することを、期待すらしなかっただろう。ただ、それなのに、カレーの匂いがする、と書いた。ただ、書いたのである。それがどんな匂いであるかは問題ではない。カレーの匂いをかいだその事実さえ、伝わればそれでよかった。

それはおそらく、カレーの匂いがした、それが懐かしかった、と感情描写が続いていたとしてもそうだろう。私たちは懐かしいという感情を知っている。しかし、そのときにどんなふうに心が動くのかを具体的に説明することはできない。

カレーの匂いを嗅いだこと、懐かしいと思ったこと、それを感じることができるという事実こそ、私たちが共有しているものだ。具体的なカレーの内容ではなく、懐かしいと思った心の動きそのものではなく、ある感受する存在がカレーの匂いをかいだこと、そして懐かしいと思ったこと、その「思う」ということを私たちは共有している。それが、限界のある文章が私たちに間違いなく伝えうる事実である。いや、これこそが文章が伝えなくてはならなかったことだ。だから、文章が全く同じ現象をその場に生起させることができないということは、限界ですらない。ただ、カレーの匂いが何であろうと、「カレーの匂いがした」という事実が伝われば、それでいいのだ。

その、具体的な現象の底にある、感受することができる能力を私たちは表現を通して、共鳴させている。

小学校の頃、物語の感情表現の分類の中に情景描写が入っていることを不思議に思っていたことがある。どうして、海が見えることや、空が晴れていることが感情に結びつくのか。そのときは、何となく「空が晴れていると嬉しいから」と理解した記憶がある。しかし、本当のところはそうではないのだろう。「空が晴れている」こと、そのものが感情である。そこに嬉しいから、論理を持ち出すまでもない。実際、私たちが空を見て嬉しいと感じることはある。しかし、ここでまず思わなくてはいけないのは、「空が晴れている」と、書かれた事実そのものだ。

ただ、「空が晴れている」と書いた。晴れているままにせず、そう書いた。そのように書き手に書かせた衝動が、「空が晴れている」ということだ。実際に空が晴れていることではない。空が晴れているから嬉しかった、ということでもない。晴れている空を見て、「空が晴れている」という感情が「空が晴れている」という言葉を書き手に書かせたのである。

書かれた全てが、感情だといえる。そして、私たちは具体的な現象よりも深いところで感じている。なぜなら、私たちは自分たちが何かを感じ取る存在であることを知っているからだ。私たちは、感受する存在である。その動かし難い事実の方が、カレーの具体的な匂いよりも、空を見てどう思ったかよりも、私たちに感情を伝えるのである。

「エモい」という言葉がある。もっと古い言葉で、もののあわれ、あるいは単にあわれ、という感嘆がある。エモい、と言われるものを見てみると、確かにエモいとしか言えないようなものである事が多い。うまく言葉になっていないことも自覚しつつ、エモい、と嘆く。同様に、もののあわれを説明してください、と言われても少し困る。古い感性であることもあるが、それ以前に言葉にならないような「何か」を直感的に感じ取る。言葉にならないが、謎でも不思議でもない。そういうものとして、すんなりと受け入れる事ができる。そして、自分がそうなったときに昔の人なら「あわれ」と、今なら「エモい」と的確にそういう事ができるのだろう。

なぜ、そのような言葉が必要なのか。それは、言葉以前の心の動きそのものを、私たちは感じ取る事ができるからである。その、万人の中にある感情の原基のようなものを、「エモい」という言葉や「あわれ」という言葉は純粋なまま取り出す事ができる。それはときに、具体的に書き並べられる言葉よりも雄弁に感情を物語る。

その感受した事実の後に「空が晴れている」という言葉が生まれる。書いたというよりも、書いてしまった。その心の動きを、「空が晴れている」という言葉が結果として伝えている。私たちが感じているのは、「空が晴れている」と書いた衝動であって、実際の空の模様ではない。その衝動だけが、私たちの中で最も生々しく共有しうるものだ。

書く人はいかにして、「空が晴れている」感情を伝えようかを苦心する。読み手はどうにかして、書き手が書く瞬間の精神が動いた瞬間を言葉から遡ろうとする。書かれてしまった言葉は取り戻せないし、心が動いた瞬間はほんの一瞬である。私たちは、どちらにせよ思い出しながら書いている。そのときに思い返しているのは、自分の体験ではなく、私たちがはるか昔から共有しているあの場所だろう。私たちは感受する存在である、という事実だろう。


最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!