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目を開けるといつもより遅い時間だった。下の階から、彼が何かを作っている匂いと音がする。起きて、光の加減を確認する。物足りない感じがする。まだ眠っていたいし、暖かい布団に潜っていたい。その代わり、伸びた髪がほおに当たってくすぐったい。電気スイッチの隣にある、天井の開閉スイッチを押す。

空は、ぼんやりと白い。まだ薄い太陽の光が、空に浮かぶ星を照らしていた。星は、三日月のように鋭い弧を描いて輝く部分と、暗い部分があった。大陸は白く山々の雪が光り、夜の海に波が揺れていた。

本やバッグで散らかった床を片付けてそこに座る。望遠鏡は眺めるのがめんどくさい。せっかく買ったのに、埃がかぶっている気がする。ピントを合わせるより、ぼんやりと空を眺めていたい気分だった。昨日の夜に降った雨が朝の空気に溶けて、涼しかった。座っているのにも疲れて、わたしは床に寝転んだ。目を閉じればもう一回眠れる気がした。こうしていれば、彼が起こしてくれるだろうと思った。

わたしはあと、すこしで死ぬのだ。死ぬどころか、世界が終わる。何度も何度も考えて、今はもう自分の中の動かせない前提になっている。死ぬことを受け入れたわけではない。そう考えないと、何も始まらないから仕方なくそうしているだけだ。以前の自分の、いつまでも生きていられる感じはもう無い。

今日をどうするか、考える。日差しが強くなって、わたしは起き上がる。ボタンを押し、天井を閉める。お腹が空いている。昨日は、夕食をほとんど食べなかった。いつもの通り、食べる理由をうまく見つけられなかった。水を飲んで、風呂に入って眠くなるのを待った。そしたら、今日になっていた。

階下に降りると、彼がコーヒーを飲んで朝食を済ませていた。わたしの席に、トーストとサラダが置いてある。「おはよう」わたしは、喉の形をあまり動かさずにいった。舌足らずな、声が出た。「おはよう」彼も言う。わたしは、席についてトーストを一口齧る。パンの香りと、発酵した酸味、後からほのかな甘さを感じた。こんなにも、鮮明に味を感じられたのは久しぶりだと思った。この朝の時間に、1日の味わいの全てがある気がする。

「コーヒー飲む?」

彼が言った。何回も言い慣れて、一語のようになっている。一緒に暮らしていると、そんな言葉が生まれてくる。わたしが読んでほしい本を彼に渡すとき、「これ、読んで」と言うけど、考えて話しているより「コレヨンデ」という二人の間だけで通じる呪文を唱えているかのようだ。そうした言葉に、自然に動かされてしまう。わたしが頷くよりも早く、彼は立ち上がってマグカップを取りに行った。

コーヒーメーカーがコーヒーを勢いよく噴射する。香ばしい匂いが部屋に広がる。ぼんやりとした意識に、また新しい感覚が生まれる。彼が、マグカップを置く音。わたしはサラダの野菜を噛む。机の木の模様が見えてくる。椅子に座っている感じがする。窓から差し込む光が、部屋の中を明るくする。次々と入り込んでくる感覚は、不可逆的にわたしの世界を彩る。もう、ぼんやりと星を眺めていた状態には戻れないと感じる。苦くて複雑な味が、鮮やかに口に広がる。


「今日はどうする?」

自分のことは何も言わずに、彼はわたしに聞いた。彼は何も決めていないようだった。新技庁に行くならそうする。わたしが遠いところに行きたいと思ったらそうするつもりなのかもしれない。わたしのために、何も決めずにいるのだと思った。わたしがいつまでも、ここで話していたいと言ったらそうするのだろうか。

昨日、キョージュが言っていた「ずるい」とは違う優しさがあるように思えた。好きにして、と相手を試すのではない。わたしと一緒にいるための余裕を、彼が用意してくれていることが嬉しかった。それだけで嬉しくて、どうしようか選べなかった。

やっとのことで、「美術館に行きたい」と思いついた。結局は、彼とよく行っていた場所を思いついた。「仕事は?」「今日は、いい。」彼は短く答えて、わたしの目を見た。「とりあえず、出かけるか。」

バイクの後ろに捕まって、風に当たっている。当たり前のように、バイクに乗っているが車に二人で乗るのとは少し勝手が違う。わたしはずっと、彼にしがみついていなければいけない。風と移り変わる景色が絶えずわたしを刺激して、ぼんやりと考えることを許さない。体が、バイクの振動と速度に馴染んできたとき、やっと物を考えられるようになる。

「ハロー、メティス」

彼が久しぶりにちゃんとした名前で、彼女を呼んだ。

「グッモーニン♪」

加速度の中で、かえってゆっくりメティスの声は答えた。

「今やってる、美術館の展示って何かな。」

彼はそう言って、また運転に集中する構えになった。後の会話はわたしにまかせるといった合図だ。

「おやおや、今日はデートですか?」
「まあ、そういうこと。」
「二人で、水入らずで過ごせばいいのに。なぜ、私を起動するんですか?」
「まあまあ」

バイクがタイヤを蹴る音をよそに、涼しい顔で冗談が飛び出す。冗談どころか、ちょっかいというレベルのものを仕掛けてくる。話しかける方も、それを身構えなければいけない。街で出会う普通の知能エージェントよりもかなり刺激的だ。

「国立科学博物館で、『星』の展示があります。見るべきものはこれではないでしょうか。」

色々提案した上に、メティスはいった。最初からこれを見たいと思うことをわかっていたのだろう。


星の展示、『星展』の雰囲気は、普通の博物館の展示とは違っていた。警備が普通よりも厳重だった。顔の認証や、端末情報を預かると言われた。わたしは、端末を忘れたかと思ったが、上着に入れっぱなしにしてあってなんとか入れた。

美しい、恐ろしい、見たくない、神々しい、懐かしい、安らぐと同時に、恨めしい。星を巡る想いは、複雑だった。展示に言葉はほとんど使われていなかった。入ってすぐ、巨大なスクリーンがあり、それに星の姿が映し出されていた。何も言えないまま、展示を目の前に人が立ち尽くしている。音楽は何も流れない。静けさが、何も語れないことを示すと同時に、全てを語っていた。

わたしは初めに見たこの展示に、考えることを全て奪われてしまった。そもそも、展示と言えるかどうか。星の姿がただ映し出されているだけ。そのありのままの姿を見せられて、何も言えなくなる。それがそこにある以上の説明はない。

地質学的な星の特徴や、地形についての説明。星が地球のそばにたどり着いた謎などを聞いても、私が知りたいことは何一つ書いていないような気がした。

最後に、星をテーマにした様々な作品の展示があった。絵画から映像、音楽まで星を描いた芸術が集められていた。それを見て、やっとわたしは心動かされる感じがした。わたしが知りたいのは、星の詳しい姿やその解剖図ではなかった。見つめることの先にある、心の動きをわたしは感じたかった。正しい見方ではなく、自分の心の置き場所を、星に探していた。

「ジェニファーとメロンを思い出す。」

彼は、星に立つ人を描いた絵の前でそう呟いた。星の海が波を立て、その水平線の向こうに満月の地球が浮かんでいた。海の前に、人が立ち尽くして、空を見ている。他に誰か描いた人はいないのだろうか、と思うほどシンプルな構図だった。彼の言葉で、その前で立ち止まる。

「どうしても、海に行きたいって言ってた。」

「うん。」

「あの時は、どうしてもそれが理解できなかった。」

彼は、またロールプレイで遊んでいた時のように話し出した。わたしはただ頷いた。わたしだって、理解していなかった。

「でも、この絵を見ると、なんとなくわかるような気がする。」

それを聞いて、わたしは絵をもう一度見る。

彼と一緒に、星の海の前で立っている気がした。海は荒れていて、波の音が激しい。けれども、空は高く静かで波の音が吸い込まれていく。しばらく立っていて、飽きたら帰った。博物館の近くのレストランで、昼食を食べた。空に本物の星が見えた。ぼんやりと影を作って、綺麗だった。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!