書かれた私は私なのか
「文章を書くのが趣味です」
「へえー、そうですか。すごいですね」
「・・・」
「・・・」
という会話を何度も経験してきた。この会話が問題だと思ってすらいなかった。自分のために書いてきたし、自分で書いて考えが深まればそれで良い、と思っていたから。
これは私自身の個人的な問題なのだが、この会話について少し考え直さなくてはならないと思っている。
それはすなわち、自分が書いた文章を人に見せられないという問題である。
もっとこうしてもいいはずと、私が思い描いているイメージはこうである。
「文章を書くのが趣味です。」
「へぇー、そうですか。すごいですね」
「noteのこのアカウントで書いてるんですよ。」
「わあー、あとで見てみますね。」
「ありがとうございます。」
その人が、後に本当に読んでくれるかは知らない。しかし、読まれなくてもいいから「これを書いている。」と見せられるかどうかは重要だと思うのである。
なぜなら書いた文章が自分の文章だ、と言えるということであるからだ。
今まで自分の文章を他人に見せる、ということができなかったのはなぜだろうと考えた。書くことはできるのにもかかわらず、書いていることを他の人に言えないのはなぜだろう。
書いた文章が自分の人格の一部であると認めることが出来ていなかったからだろう。と私は結論づけた。そして静かに驚いた。
今まで、さんざん書いてきたのに、まだ私は私の文章を認めていなかったのか、と。
実名で書いていないし、読んでいる人も自分の知らない人だ。初めから、別の人格として書けばいい、という意見もありうる。
いやしかし、そのように生まれた人格も私の一部であるはずだ。全ての人に受け入れてほしいと思わなくとも、大切な人や友人に書いている自分を隠して関わっていくのは嘘をついているような感じがする。だから、見せられないでいる自分というのが気になってしまうのである。
書かれた文章と、それを書く人の関係とは何なのだろう。それが私の書くことの深い部分にある。
書きながら考えるのが好きだ。そうすることで自分も知らなかった何かに出会うことができるからだ。予想もしない展開や、言葉に書いている自分も驚きたい。だから、書いているときはなるべく「私」というものを忘れていたいとも思っている。
考えてこなかったのは、その予想もしなかった自分も自分なのか。ということだ。だから、私はこれが自分だと他の人にはっきり言えなかったのだろう。
書かれた私は私なのか。
これを考えるのは私自身しかいないようだ。書いた後には、出来上がった文章しかない。完成形だけを見た人には、うまく伝わらないかもしれない。書かれる前と後に、驚いているのは私だけかもしれない。
そう考え続けるから書き続けることができているような気がする。
だからやっぱり私は、冒頭の無言の会話をこれからも何度も繰り返すだろう。
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!