2020年8月双葉町取材①/牛舎
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一度だけ8月に富岡を歩いたことがあるが、今の日本の夏で丸一日徒歩で取材することは不可能に近い。日焼けと熱中症で倒れる。2020年も夏になり、しばらく取材に行けないなと思っていたところで、3月の常磐線全通の際に双葉駅で初対面した鵜沼久江さんから、双葉に取材に行きませんかと声をかけられた。共通の知人である映像作家の堀切さとみさんと一緒かと思ったが、そうではなくて僕だけだ。
鵜沼久江さんは双葉町で稲作と牛飼いをしていた人で、自宅は今も帰還困難区域にある。震災後は埼玉県に避難し、今は農家として立派に生計を立てている。双葉の元牛飼いとして、ドキュメンタリー作品「原発の町を追われて」(監督は堀切さとみさん)に出演し、様々なイベント等で震災当時のことや福島の現状を多くの人に伝え続けている。双葉町で野菜栽培の実証実験に参加するので、その様子を見て欲しいと僕に声をかけてくれた。
8月26日の朝、鵜沼さん宅の最寄り駅まで電車で向かい、そこから車に乗って双葉町を目指した。
四倉のPAで昼食。鵜沼さんは、常磐道で双葉に帰るときはいつもここに寄るという。
激烈にうまい天丼を食べてからトイレによると、広野〜南相馬IC間の放射線量が大きなモニターに表示されていた。
こういったモニターはこれまでにも何度か見ているが、数値はあまり信用していない。モニタリングポスト周辺はしっかり除染がされているし、BGを高めに設定しているからだ。普段と比べて高いか低いかの目安になる程度。僕が初めてこの区間を通過した2015年5月は、一番高いところで5.5μSv/hだった。その時より半分程度まで線量が下がった、というだけのこと。
こういう数字のそばには、大抵、航空機での移動でどれだけ被曝するかということが書かれていたりする。しかし、それはあくまでも外部被曝だけの話であって、放射性物質が管理されてないこの空間と比較することはナンセンスだ。その証拠に、車のエアコンは内気循環にして窓は開けないようにという注釈が書かれている。よく「WBC(ホールボディカウンター)で何も検知されない」といって内部被曝が大したことないことを強調する人がいるが、であれば「車のエアコンは内気循環にして窓は開けないように」という注釈をやめるように行政に進言してくればよい。何なら、帰還困難区域や原発構内の線量の高い場所でマスクを装着することさえやめるように言えばよい。内部被曝を否定して外部被曝だけで物を語ることは、完全にナンセンスで、あらゆる意味で非科学的である。
大熊ICで常磐道を降りて最初に目に入ったのは、大量のダンプが止められた広大な駐車場だった。これらのダンプのほとんどは「除去土壌等運搬車」。福島県内各地から双葉と大熊の中間貯蔵施設へ汚染土を運び込む。そのあまりの数に思わず圧倒される。
大熊ICから双葉町へ向かう車中で、森を見ながら鵜沼さんは盛んに首を捻った。
「あそこも枯れている…」
まだ8月だというのに、山中の枯れ木が目立つという。この土地で何十年も暮らしてきた人のこういった肌感覚というのは大事で、そういった疑問から「科学」は出発しているのだと思う。
帰宅後に調べてみたところ、こういった現象(ナラ枯れ)は西日本を中心に起きていて、所謂虫害であることが想定された。しかし主に暖かい地方で起きる現象で、福島県浜通りでも同じことが起きているというのは驚きだった。驚きといえば、ここ1、2年、双葉や大熊ではクマ(ツキノワグマ)が出没しているが、そもそもこの地方にツキノワグマは生息していなかったという。
震災後、原発事故によりこのエリアからは人が消えた。地球の温暖化も進んでいるし、「生態系の変化」はこの地方で確実に起きている。そこには放射能の影響も少なからずあるはず。そういった調査を丁寧にやってほしいと思うが、NHK『被曝の森』などでしかそういった研究の話は聞こえてこない。「放射能の影響」というと何かとデマデマと叩かれるが、そもそも「放射能の影響」を調べる研究が少な過ぎるのではないか。某大学の名誉教授が「福島県内に入って調査することが許されていない」と僕に話したが、そんな状況を何とかしなければ、福島第一原発事故で何が起きたのか、検証は全くされず、全ての責任の所在なども有耶無耶にされてしまう。
双葉町へ向かう車中で4μSv/hを超えたりしながら、上羽鳥の解体廃棄物一時保管場を通り過ぎた。
ここには、双葉町の各地で解体された建物等のほとんどが運ばれてくるという。いわば双葉町の多くの財産の仮の墓場だ。「ご迷惑をおかけします」「解体・除染をしています」そう書かれた看板を見る。本当にご迷惑をおかけしているのは誰だろうか。
震災から9年半、放置されて朽ちていく立派な家々。すでに解体され更地になった土地。どこに誰が住んでいたか、わかるからこそ鵜沼さんの口から様々な声が出てくる。バリケードの向こうに見える家をカメラに収めながら、いろんな感情が頭の中を駆け巡った。
長塚越田スクリーニング場で防護服一式を受け取り、さあこれから帰還困難区域、というところで、身分証明書を忘れてきてしまったことに気付いた。2017年11月に訪れた際は、4人も車に乗っていたせいか代表者の身元確認だけでOKだったが、今回はしっかりチェックするという。そういえば、6月に大沼さんと2人で来たときもしっかりチェックされた。僕的には、「中間貯蔵施設エリア」が設定されたことで、入域時のチェックが厳しくなったように感じている。
役場に電話をしてもらうなどして時間はかかったが、結局は役場の人たちの顔なじみである鵜沼さんのおかげで、身分証明書を忘れていても何とか入域することが出来、まずは鵜沼さんの家へと向かった。
自宅は崩れかけていて、中に入ることは出来ない。それよりも、雑草が凄まじく、完全に行手を阻んでいる。
イノシシの寝床になっていたという倉庫には、米が入っていた。あるとき、東電が自宅を綺麗に掃除してくれるというので頼んだところ、それ以来米が40俵なくなったという。犯人が誰なのかはわからない。しかし、このように放射性物質で汚染された米を40俵も誰か一人で食べるとも思えず、一体その米がどこへ消えたのか、考えるだけで恐ろしい。
牛舎を見せてもらった時は、いろんな感情が込み上げてきた。線量自体は1〜3μSv/hで充分高いのだが、5だの6だのに慣れてしまった今となっては驚くほどではない。それよりも、9年半前の原発事故で牛たちに降りかかった地獄を思うと、僕は写真を撮りながら手を合わせずにはいられなかった。
この牛舎で何が起きたのか、「取材」というからにはいろいろと聞かなければならないが、この日が鵜沼さんと会うのはまだ2回目、そしてその光景に、僕は何を聞けばいいのか、何を話せばいいのかわからなかった。
牛舎の脇には、建設途中で中断した新しい牛舎もあった。骨組みと屋根だけが出来上がっている。
「あの屋根は、お父さんと2人で登って作ったんだよ」
思い出を噛み締めるように鵜沼さんは話した。この建物は、「壁がないから建物ではない」として一切賠償はされず、震災後もローンを払い続けたという。
「原発の町を追われて ある牛飼いの話」で出てきた鵜沼さんの連れ合いは病に倒れ、もういない。僕は会ったことはないが、これまで何度もそのドキュメンタリーを繰り返し見てきて、頭にはイメージが残っている。自宅周辺に置かれたままのトラックを見て、頭の中にその顔がまざまざと浮かんできた。
車の中でいろいろと話をしていたが、鵜沼さんはここに来て少し無口になった。頭の中で何を思い出しているのだろう。本当ならここでそれを聞き出さなきゃいけないのだろうけど、僕にはそのスキルはない。
その後、双葉町と大熊町との境に建つ塞神社へ。町の境には、ガードレールが立ち「この先帰還困難区域につき通行止め」の看板が立つ。向こうもこっちも帰還困難区域だが、大熊町の帰還困難区域に入るには大熊町に届け出を出して許可をもらわなくてはいけない。そのため、同じ帰還困難区域でありながら、この道は自由に通行出来ない。僕らはガードレールの脇をすり抜け、塞神社へ。
昭和61年建立と比較的新しいこの神社は、震災で傾いたままだった。未だ帰還困難区域で除染もされず放置されたまま。傍らには「大東亜戦争戦没者供養碑」が建つ。
昭和61年建立で「大東亜戦争」と書かれているところを見ると、これを建てた人の考えが頭に浮かぶが、保守と呼ばれる人々が推進してきた原発の事故でこんな姿になったことを、どう感じているのだろう。
この時僕は、いろんな感情が頭の中に渦巻いて、とても混乱していた。「何かを感じる」余裕なんてなかった。ただ、目の前に突きつけられる現実を受け止めることしか出来なかった。ここに書ける話も、書けない話も、いろんな話を聞きながら、中間貯蔵施設エリアへと移動した。
<続く>
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