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「なんか」のレベルで。

今週末『空中庭園』という場をいっしょにひらく相棒、橋本仁美ちゃんが、案内文にこんなことを書いていた。

 右脳的きき方は体感覚的なきき方。肌感覚とか、熱いとか冷たいとか、硬いとかやわらかいとか。そういう聞き方が入ってくる。それら触感は居心地にかかわってくるから、「この人といるとなんかホッとするな」とか、「この人といると緊張するな」ということが起こる。

 だけど、どうしてほっとするのか、どうして緊張するのか、普段の会話、日常のやりとりの意識レベルではその原因まではわからない。わからないけど確実に影響はうけてて、「あんまりこの人とはいたくないな」とか「もっと一緒にいたいな」という気持ちに、感情にかわっていく。その、気持ちや感情に上る前の感覚的な所から顕在意識にのぼらすことができるのが、円坐の効果なんじゃないかなーと思う。

 そしてそこまで意識にのぼってくると、体は直接触れあっていなくて、言葉での会話だけなんだけど、実際に踏みにじられたり、救われたり、そういうことが起こってるのが分かる。日常だと言葉のはやさ、思考のはやさに追いつけず、だまされたり見落としたりするのだけど、円坐の中ではことばを”たどる”ことによって思考のはやさをリアルタイムで追いかけることができる。たまに追いつく。その思考のはやさと正体を、みんなで目撃することになる。

「円坐」というのは、みんなで輪になって座り、なにを話しても話さなくてもいい場のことだ。僕たち二人はその場に「守人」として座り、参加してくれた方々が発する言葉を一字一句丁寧にたどっていく。

のだけれど、個人的に「なるほど!」と思ったのは、この部分。

だけど、どうしてほっとするのか、どうして緊張するのか、普段の会話、日常のやりとりの意識レベルではその原因まではわからない。わからないけど確実に影響はうけてて、「あんまりこの人とはいたくないな」とか「もっと一緒にいたいな」という気持ちに、感情にかわっていく。

人は見た目が何割とか、第一印象って大事といった話って、僕はあんまり好きじゃなかったけれど、人に会ったとき「なんかホッとするな」「緊張するな」といったレベルで、その人を瞬時に判定することはある。

この「なんか」のレベルは、日常のやりとりのレベルでは、ごまかされたり、ないものにされたりしているし、それをなきものにすることで僕たちは「仲良く」できるわけだけれど、実はずっとある。そして僕の場合、それが積もることで人や場所から離れていく原因になった。

だとしたら、人は「なんか」のレベルに支配されていて、何の自由もないように思えるけれど、そうじゃない。

本気で誰かと関わったとき、その「なんか」の原因がぽろっと明らかになることがあるからだ。そのとき、相手に感じていた「なんか」の質が変わり、お互いのいる場所が換気されたみたいにクリアになって、新しい場所にたどり着くことができる。まるで「なんか」が成仏したみたいに。

でも、その「なんか」は並大抵のことじゃ剥がれない。僕は強烈な夫婦喧嘩の中でかそれができなかった。

円坐の中ではことばを”たどる”ことによって思考のはやさをリアルタイムで追いかけることができる。たまに追いつく。その思考のはやさと正体を、みんなで目撃することになる。

と共に円坐では、僕たちが「仕合う」と呼ぶ強烈な関わりが起きることがある。仁美ちゃんは引用した文章の前に

ドロドロ?絡みつき?もたれあい?それをやりたいのかな?えぇ、そんなことを?別にそれしたい訳じゃないな。

と書いていたけれど、こうしたドロドロ、絡みつき、もたれあいとも思える関わりの先に「なんか」が外れる瞬間があるから「仕合う」ことができるのかもしれない。

でも、誰とでもやれるわけじゃないよなあ、と思う。
僕にとって奥さんがその人であったように、人にはそれぞれ決められた「宿命のライバル」のような相手がいるように思うのだ。

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