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must のない世界。

「must」という英単語を習ったのは、いつぐらいだったろうか。
いまは中学二年で習うらしいが、助動詞の単元の最初に、can や may とともに習ったおぼえがある。

意味は「〜しなければならない」。must not にすると「〜してはならない」という強い禁止になる。

以来、人生のいろんな場面でこの must について考えるようになった。

英語学習の初期段階で現れた後、must は生活の至るところに登場する。
学生なら勉強しなければならない、テストを受けなければならない、大学を卒業したら就職活動をしなければならない、社会人になったら定時に出社しなければならない、仕事をしなければならない、お金を稼がなければならない...。

不思議とゲームをしなければならない、恋愛をしなければならない、漫画を読まなければならないといった使い方はされない。must は娯楽や快楽とは相性が悪いようだ。

一番いやなのは、他の人から「〜しなければならない」と強いられる時だ。そのとき must は、立場が上の人から下の人への(支配)力の行使として使われる。大抵、暴力的に。

会社では「指示命令系統」という言葉が普通に使われているが、これは人が人に対してある行動を強要することを正当化したものだ。そんな権利は本来誰にもないのに、雇われた人は「そういうもんだ」と思って、must の指示や命令に従っている。

いまになって気づくのは、must の意味の中に「〜に違いない」というのがあることだ。

誰かになにかを must と強いるとき、その人はある価値観を「〜に違いない」と固く信じている。その信念の強さがあるから、平気で人に(自分にも)指示、命令、強制できる。

でもそれなりに人生を生きてくると「〜に違いない」と言えるほどの信念をもって他人を動かそうとすると、相応の抵抗や反発を受けることを学ぶ。まるで、作用・反作用の法則のように。

その抵抗を無力化するためにルールをつくったり、「指揮命令系統」のように明文化したり、契約を交わしたりするわけだけれど、それは思考で身体を縛るようなもので、天然の生命力には反している。

なんでそんなことを思ったかというと、うちの賃貸契約の中に「保証契約」というのがあって、僕が賃料を払わない時の取り立てをする費用をなぜか僕自身が払うことになっていたからだ。

「この契約で得をするのは貸主なのに、なぜ僕が支払うことになっているの?」と不動産会社や業者に尋ねたところ「家を借りる人はこの契約をしなければならない」と回答があった。返事になっていない。僕の生活の中には must がとても少ないので、久々に出くわした must にイラっとした。

must は人と人との対話を、人間と人間として出会うことをさまたげる。逆にいえば、そのめんどうを避けるために使われる。

強い信念をもち、自分を must で縛っている人が苦しそうなのは、そこに融通の余地がないからだ。それは効率的かもしれないが、自然な揺れやゆとりを奪う気がする。おそらく他者とのやわらかい関わり合いをも。

そんなことを不動産会社に言ってもしかたがないので「こんなもんだよな」と思い、対話を諦めた。なんかヘンだよな、というモヤモヤは、いまだに残っている。

must は、人との対話を省略できるけれど、本当にはなにも実現していないのだと思う。むしろ、must のない世界にいるとき、人は本来の姿で存在できる。仕事でも人生でもなんでも、実現したいものは、すべてその must のない世界にあるような気がする。

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