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肩書きがものを言う。

新しい職場で仕事をしていると、時々ふっと「もし僕が違う肩書きをもっていたら、出会い方ってぜんぜん違うんだろうな」と思うことがある。

たとえば、課長や係長なら?
あるいは、どこかの会社やNPOの代表なら?
僕は僕のままなのに、きっとぜんぜん違う僕として見られるだろうし、僕自身もちょっと違った感じで話をすると思う。

名刺に書かれているような肩書きでなくても、人には見えない肩書きがあるように感じる。「リーダーっぽさ」「参謀っぽさ」「下っ端っぽさ」といったその人が醸している空気で、まわりの人の態度が変わる。人は知らず知らずそれを感じながら仕事をしている。

いま思えば、自営業はその肩書きを全部なくして「ただの人」として仕事をする試みだった気がする。そこから勤め人に戻ったいま、「ただの人」同士の関係しかないはずの職場に、実体をもたない「肩書き」がはっきりとした影響力をもって存在するのを感じる。

それは法人が個々人より大きな存在に成っていくように、時に人をこえた力をもつ。肩書きのある人を交えて会議をしていると、人間以外の力に揺さぶられて船酔いのようになったりもする。

その揺れを起こす、ぐねぐねしたうねりの渦が「社会」なのかもしれない。
それは僕自身の手に余る力で物事をうごかそうとしている。

今日、総理大臣が新しい人に変わった。
新総理は、すでに官房長官だった時と顔立ちが違って見える。
僕が「総理だ」と思っているからそう見えるのか、カメラマンが「総理だ」と思って撮ったからなのか、ご本人のなにかが変わったのか、それは分からない。

このことを思うとき、僕が職場で時々感じるうねりのようなものは「権力」なのかもしれないと思い至る。

人と人が協働しながら働くことは、この権力のうねりをコントロールすることでもあるのだ。それは海に立つ波のようなもので、そう簡単にはなびいてくれない。

その波の中をある時は下っ端、ある時は中堅、ある時はリーダーと肩書きを変えながら、必死にもがいているのが僕らだとしたら、そら、うまく進まないし、疲れますわな。

定年を迎えたサラリーマンが抜け殻のようになってしまうと聞いたことがあるけれど、あれはもしかしたら「肩書き」が抜けていってるだけかもしれない。抜け殻なのは「肩書き」のほうで、残るほうが自分。

でも幻みたいな「肩書き」の方がずっとパワフルで、僕らさんざそれに振り回されるんだよなあ。概念にすぎないのに、つくづく不思議だ。

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