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未来の勝手


私が小学生の時に書いた絵を、
実家の店で母が飾ってくれていて、
それを見た子供のお客様が、
描きたいと言い出し、
帰りに落書きセットを買ってひたすら描いているそうだ。

その子はいわゆる発達障がいで、
なかなかこう、なにも、しない、できなかったようなのだけど、
「あの絵をみてなんだか興味が湧いたみたいで。
ありがとうございます」
とその子の母親がうちの母親に伝えたそうだ。
それを私は聞いた。

すごく、嬉しかった。
ぜんぜん知らない人なのに、すごいなあと思った。
何かものを作って、もしくは書いてどこかに発信し、
それを見た・読んだ誰かがきちんと受け取って感じて、
その人自身の何かに繋げてくれること。
それは内容が伝わった云々と言うことではなく、
ただ無条件に自分の存在が認められたという喜びに近い。
しかも、自分の知らないところでなんて、
欲がないぶんとても清々しく、
その真実は余計に輝いて見える。
生きていていいのかと、勇気を与える。

逆のことも、おおいにありうる。

自分の知らないところで、私という存在・私が作った何かが貶されたり、なめられたり、消えてしまえばいいのにと思われたりする。
死んだほうがいいのかと、絶望を与える。
それは誰の言葉であってもだ。事実じゃなくてもだ。

人は簡単に生きる希望を見つけるし
人は簡単に死ぬ価値を見つけてしまう

存在の否定ほど、その人が自分を愛せなくなる原因として大きいものはないし、
例えばそんな経験が過去にあったとしたら、
なおさらやってはいけないと、私は思う。

記憶や経験として強く残ってしまったからこそ、
自分自身も無意識におこなってしまう色々は確実にある。
無意識だったり意識的だったり、とにかくそこに不安があることも、わかる。

けど、それでもそれを乗り越えて強くなって誰かを守りたいから、今まで生きてきたんじゃないのか。

なんだか、歪んでいる全てが。

あと数分で新月だそうで、
これからは水瓶座の時代、風の時代が来るそうだ。

抗えない勢いでの破壊のあとに、
いちから新しい価値観で作ってゆく、
新しい自由な時代だそうだ。
個人の時代。

こっからはなにか変わるのだろうか。

誰に理解されなくても、もういい。

いろんな固定概念から抜け出して、自由で見えない風のように、なににも縛られずに私の信じるものを信じて私は進む。

明日死んでもいいように生きる。

というか、明日死ぬつもりで生きる。

明日死ぬ。私は明日死ぬ。

「お前はお前の人生で、勝手に死ね」

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