見出し画像

どっちでもいい、という選択肢。

ここ最近、自分にとって「親」や「子」、さらには「生」みたいなものも、自分の人生のテーマなのかもしれないな、と思うようになった。

もちろん、「見た目問題」や「アルビノ」もわたしにとっては大きなテーマで、ライフワークである。けれど、「見た目問題」も「アルビノ」も「親」も「子」も「生」も、すべて地続きで、切り離して語ることはできないと思う。

「見た目問題」、「アルビノ」以外で特に意識させられるのは、「親」について。理由は、わたし自身が親子関係で生きづらさを感じてきたこと(愛されることが生きづらさになることだってあるんだ)、大学院で親の研究をしていたこと、自分のまわりの人の親子関係について話を聞く機会が、ここ2年くらい増えたこと、生殖医療の発達で、人工的に生まれる(生まれされる)人がいて、そのことを強く意識させられる出来事が自分に起こったこと、自分が女であり、26歳という絶妙な連嶺になったこと、アルビノは遺伝子疾患で、もし、自分が子どもを持ちたいと思った時は、遺伝のことを考えないわけにはいかないこと。「親」にこだわってしまう理由をざっと書き上げたけれど、わたしにはこれだけの理由があるのだ。

そもそも、少し前のわたしであれば、「恋愛」も「結婚」も「出産」も興味がない、というかもはや関係のないことだった。だって、劣性遺伝とはいえ、遺伝子疾患だから。他の当事者も同じように「自分と同じ思いはさせたくない」と思ってしまうようだ。そう思ってしまうのも仕方ないと思う。わたしたちアルビノ当事者にはまだまだ生きづらい社会であると思うから。そうなると、遺伝は呪いだし、その呪いを断ち切りたいと思うのは、ある種の優しさでもあると思う。「神様のいたずら」とか、そういう可愛いものじゃないんだ。

「遺伝が怖いから子どもは持たない」→「子どもを持たないなら結婚もしない」→「結婚しないなら恋愛もしない」こういう発想だった。病気や障害がある人が子どもを持つことに反対どころか、むしろそういう選択を応援したかったけれど、自分に対してだけはどうしても、自分だけに向けられる「内なる優生思想」があった。だから考えないように自分で自分を抑圧していたのかもしれないけれど、本当に興味が湧かなくなるというか、感じなくなるんだよね。

ひとりで恋愛、結婚、出産に対して固い決意をしていたわたしだけれど、そんなわたしにも転機が訪れた。一つは、研究の過程で「見た目問題」当事者の親御さんに話を聞いたことだ。様々な疾患のお子さんの親御さんを対象にしたインタビュー調査で、中には優性遺伝、劣性遺伝の遺伝子疾患を持つ子どもの親御さんもいた。そもそも、インタビューに応じてくれる人はある程度乗り越えた人というところが、研究の限界を感じるのだけれど、インタビューを重ねるうちに、どの親御さんが語る内容もさることながら、何より表情が素敵だった。その表情を見ていると「あれ、もしかしたら意外といけるんじゃ…?」と思うようになった。決意の氷が少しずつ溶けていた。最終的に、修論が出来上がった頃には「今は絶対に子どもが欲しいというわけではないけれど、親になるという選択肢もナシではないかな」という結論に落ち着いた。

もう一つのいくつか取材を受けるなかで、必ずおきまりのように「恋愛は?」「結婚や出産は考えていますか?」と聞かれるからだ。いくら、「親になる選択肢もありかもしれないな」と思えるようになったとはいえ、正直、恋愛も結婚も出産も「どっちでもいい」というのが本音だった。実際、今ある人間関係で満足していたし、自分であえて恋愛、結婚、出産についてどうしたいのか考えることはしなかった。しなくても済んだ。けれど、人から何度も何度も聞かれるうちに、少しずつ意識するようになった。あとは、20代半ばになったということもあるだろう。

2019年12月現在のわたしは、上記と同様に「恋愛は?」「結婚出産は?」と聞かれても「どっちでもいい〜」というのが本音。けれど、だんだん「親になるという選択肢もありかもしれません」と答えることに限界(?)のようなものを感じてきた。

先日、NHKで放送されている「あさイチ」に作家の川上未映子さんが出演されていた。そのなかで、「女性は30歳くらいまでに決めなければならないことが多い」ということが話題に挙がっていた。それを聞いた時に「確かに!」と思う自分がいて、昔、結婚も子どもが欲しいという願望も強い親友の男友達から「女は遊べる時間短いから大変だよな」的なことを言われてムカついたのを思い出した。確かに、親友の言うことはある種間違いではないし、エビデンスもはっきり出ている。けれど、そのエビデンスへの抗えなさ、みたいなものがわたしをムッとさせたんだと思う。

26歳。おそらく一般的には、仕事も慣れてきて今後のライフプランについて色々考え始める年頃かもしれない。そもそもわたしは、社会に出るのが多くの人より2年半遅れているから、+2年半くらいな気持ちで考えてもいいのかもしれないけれど、+2年半できないものもあるからね。

「親になる選択肢もありかもしれません」という返答は、わたしにとってはすごく便利な言葉になってしまったのかもしれない。嘘はついていないけれど、本音とも言い切れないような。「どっちでもいいです」なんて、無責任なことは言えるはずがない。人生に親になる選択肢も開けたことも、親になろうがなるまいがどっちでもいいのも今のわたしの本音である。ただ、「どっちでもいい」という曖昧さは人生の進路を決め付けない遊びがある一方で、「自分の人生にちゃんと向き合ってないんじゃないの?」と自責の念にかられる時もある。

心に余裕がないと、曖昧でいることは難しい。余裕がないと、物事を白黒はっきりつけたくなる。わたしは今、「自分の人生にちゃんと向き合っているのか?」と聞かれたら、答えるのが難しい。自分の人生は、自分で選び取ってこそ意味があるとわかっていても、選び取ることは容易ではない。ただ、「どっちでもいい」なんて自分に対しても無責任なことを言うのはやめたいと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?