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「明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のように確かな文体、私はこんな文体に憧れている」


この文と出会ったのは数年前に見た映画「羊と鋼の森」の中だった。この映画の原作は、宮下奈都『羊と鋼の森』(文藝春秋)である。

主人公である新人ピアノ調律師が悩んでいる時に、憧れの上司が「めざす音」について話した時の言葉である。映画館で耳にしたとき、なぜか心の中にすとんと入ってきた。

家で過ごす時間の中でこの文がよみがえった。心に残る印象的な文だった。


「羊と鋼の森」の主人公の青年は、調律という仕事に向き合って成長して行く。

スクリーンに映し出される情景も流れる音楽も人物が発する言葉も心に染みるが、何よりも主人公が理想の音をめざして仕事に向き合う姿に心を動かされた。


冒頭の文は、原作者宮下奈都自身の美しくも確かな文体をそのまま想起することができる。

「文体」という言葉を「音」に置き換えれば、映画の中で上司の調律師が理想とする音にそのまま当てはまる。いろいろな違う言葉に置き換えられそうである。

もう一度ゆっくりと味わってみたいと思った。


この文は、詩人で小説家である原民喜(はらたみき/1905ー1951)のエッセイ「砂漠の花」の中に出てくる。冒頭の文の後に続くのが次の言葉である。

「だが結局、文体はそれをつくりだす心の反映でしかないのだろう」


原民喜の「文体はそれをつくりだす心の反映…」という言葉に魅せられて、心について考えてみようと思った。

人の心は見えないし、自分の心は見られたくない。

時には人に良く見られたいために取り繕うこともある。自分で自分の心がわからないこともある。心は見ることも触ることも聞くこともできない。

けれども、心は人のど真ん中に存在している。


最近は医療が進歩し、CTで人の身体を輪切りにしてみることが出来る。MRIでは筋肉や脂肪までも区別できるらしい。

21世紀は脳の世紀とも言われている。科学がさらに発達し脳を調べたら人が何を考えているのかわかる時代は、もうすぐそこまで来ているのかもしれない。


しかし、科学的ではないかもしれないが人は人の心が見えるときがある。何かを通して感じるときがある。

それは文体であったり音であったり、所作であったり発する言葉であったり。その人の心の全てがわかるわけではないが、ほんの一端がかいま見えることがある。


体の成長はわかりやすいが心の成長は見えにくい。見る側の見抜く力も必要になってくる。心は何かをするときに不可欠なものであり、どんな時にも大事なものであると思う。

心は育っていくものなのだろうか育てるものなのだろうか。正しい育て方があるのかないのか…。

正解はわからないが、心を成長させたいと思う。

そして人それぞれ成長の仕方は違う。



環境も資質も違い、求めているものも人それぞれである。

漫然と生きているときは心にあまり変化はないかもしれない。また意識しなければ、人は自分の心の変化や成長に気づかないのではないだろうか。

携わっている仕事、めざしている目標、好きなこと、得意なこと…人それぞれであるが、少しでも優れたもの、より良いものを求め、悩んだり傷ついたり、喜んだり悲しんだりしていく中で人の心は成長していくのではないかと思う。


「優れたもの」「より良いもの」はそんなに簡単に手に入らないことが多い。

向き合うこと、真剣であること、誠実であること…が必要となることも多い。

けれども求め続ければ必ず近づけると思う。


人からの評価を気にするのは意味がない。

不安な世の中ではあるが、自分の求めるものに向かって一生懸命に進み続けたときに心は成長し、めざすものに近づくことができるのではないだろうか。


いつもより多めの家で過ごす時間の中で、心について少し考えることができた。








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