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モラトリアムが終われば

モラトリアムが終われば、何者かになれる。何者かにならなければならないと思ってた。

モラトリアムとは
社会的責任を一時的に免除あるいは猶予されている青年期をさす。生きがいや働きがいを求め,発見するための準備を整える一方,自分の正体,アイデンティティを確定できず,無気力,無責任,無関心など消極的な生活に傾きながら,自我の同一性を確立してゆく。

大学の教授とおしゃべりしていて、「あなたは生き急いでるようにみえるねえ」と言われた。
母と変わらない年の教授だが、数えられないくらいの20歳前後の学生を見てきた人だ。

学生生活は何者かになるためのモラトリアムだと思ってきた。
「学生」という肩書きが外れば、何者かにならなければならないと思ってきた。

あと半年もすれば、私は「学生」の肩書きが外れる。
何者にもなれそうにないことにずっと焦りがあったのだろうか。

大学は、私たちにキャリア教育をして、何者になりたいかを問う。

キャリアセンターはあるべき姿はないと言いながら、ロールモデルを提示してくる。

就活で「キャリアプランを提出せよ」という企業もあった。

教授は、就活で「キャリアプランがわからない。2年先のことはまだ考えられても、10年後なんて考える気がしない」と悩んでいた私に、

「先のことなんて、なるようにしかならないから」

と言いのけたのだ。

私の性格はきっと、見栄っ張りだ。
有言実行のためなら、多少体調が悪かろうが、スケジュールが厳しかろうが無理をする。
その結果、できなかったことは、ずっと悔やむ。

その時期すっぽり思い出せなくなるほど、有言不実行はストレスだ。

キャリアプランの提出なんて、有言不実行の極みだ。
やるかどうかわからないことを、やることとして誰かに見せないといけないことは、自分で自分の首を絞めているに等しい。

もし幸運にも「何者」かになったとき、
私が「何者」かであるために、それ以外のことを諦めなければならないのだろうか。

誰かのこうするべきという意見や、大学のキャリア論、メディアが作る立派な人間像に私は無意識で囚われているのだろうか。

私は、モラトリアムで何を猶予されているのだろうか。モラトリアムが終われば、猶予されていたはずの何かが、待ったなしに催促されるのだうか。

これまで犠牲にしなくて済んだ何かを、社会人になれば失うことになるのだろうか。
先の見えない、何かもわからない犠牲にしなければならない「何か」をいまの私は必死に守っているのだろう。

モラトリアムが終われば、手の中から逃げていってしまうかもしれない「何か」を、失うことが怖くて、もがいてる様子が、「生き急いでる」ように映るのだろう。

私が、私の意図しないところでも私が定義されてしまうのが怖いのだろう。


多くの大人が言う、

学生の頃は楽しかった。

その意味を私は知りたい。何者でもないことが楽しかったのか。

それとも、「何者」かであるために犠牲にしている何かをまだ持っていた頃を懐かしく思うのか。


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