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牡蠣に纏わる

『私の母は牡蠣を食べない。絶対に。
仕事柄、というわけではなかった。そうであるならば火を通せば問題ないはずだし、牡蠣に限ったことではないはずだし、巻貝はよく食べている姿を見かける気がした。
なんかいやらしい感じがするのよね、そう言ったのは、日曜日の夕暮れ、有栖川宮記念公園に足を踏み入れたところだった。そしてシベリアンハスキーのミドリが狂ったように綱を引くので諦めて手綱を手離したところだった。母の頭もおかしくなったのではないかと思い、母がわたしの知らない他人のように見えた。』


 牡蠣を食べずに大人になんてなれるもんか。そう思い口にし、お腹を痛め病院に駆け込んだこと2回。牡蠣は私に似合わないのか。それでも私はあのグニョリとした食感も、グロテスクな見た目も好きなのである。
 日曜日の夕暮れ、私は有栖川宮公園すぐ近くにある、こじんまりとしたビストロで、公園を見渡せる位置に腰を降ろし、ワインを舐めながら静かに寛いでいた。こんな夕暮れが好きだ。今日1日のやることは程よく済ませたし、日中は読書もした。ゆっくりとコーヒーも飲んだし、約束に合わせのんびりと準備を始めた。シャワーを浴びて、気分に合うファッションに身を包む。最後に蛇のピアスをつけた。プレゼントしてもらった蛇は1番のお気に入りだ。
 そして、電車で2駅待ち合わせのビストロを目掛けた。ダラダラではなく、のんびり というのは 何かを決めている心地良さなのかもな 。帰る家があるのと同じことのように。
 電車に揺られながらぼんやりと考えていたことが、今また浮かんでくる。このフワリとした夕暮れを見ていたら。とても満ち足りていた。
 軽さのあるワインにさらに心地よくなり始め、首を左右に振ってみる。調子づいてそのまま後ろを振り返ると、もう1度ゆっくりと店内を眺めた。黒板のメニュー表に『牡蠣とロックフォールのグラタン」に目が止まる。牡蠣…か。
 その時店の扉が開き、ほんの少し息を弾ませた周がやってきた。おぅ、と軽く挨拶するように手を上げ柔らかな表情を向けると、向かい合わせの席に腰を降ろした。お水を持ってきたウエイターに「同じものを」と告げると、ポケットから手の平に乗る何かを取り出し
「あげる」と言った。」
「何だ?![#「?!」は縦中横]これ。すごく素敵だね。か、き?」私はそれをまじまじと見つめた。
「うん。"オイスター"なんだって」
「どうしたの?これ。」
 運ばれてきたワインで喉を潤すと、周が話し始めた。
「今さ、ここに来る時に、そこの公園で犬がこっち目掛けて勢いよく走ってきてさ。」
「犬?どんな?大きかったのの?」
「あれなんつーんだ。あ、ハスキー。シベリアンハスキー。割とデカかった。」
「ふんふん。それで?」興味深く、私は先を促した。
「それで咄嗟に犬を避けようとしたら、横を通っていた自転車の女の人にぶつかっちゃって、その人が自転車ごと倒れちゃったんだ。その拍子にカバンの中身も散っちゃって。慌てて謝って一緒に荷物拾ってて。」
「大丈夫だったの?その方。」
「うん。よかった、派手に倒れたってより、何となくバランス崩したようにって感じだったから、ケガとかはなくて。」
「うんうん。」私もホッとする。
「それでさ、その飛び散った荷物を拾ってたんだけどさ、CDとか文字がたくさん書いてある紙がいっぱいで、それが1枚も飛んでかなくて、その時何となくホッとした。なんか大事なもののような気がしたから。」
「へぇー。どんな感じの人だったの?」
「金髪の短い髪の人で、カバンの中身もしかしてその人が作ったものかな?て思って聞いてみたんだよね。そしたらそうです、て。」私たちはまたワインを口にした。
「それで最後にもう1度、本当にすみませんでした。て謝ったら、全然大丈夫です、一緒に拾ってくれてありがとうございました。て言いながら、着ていた服の胸ポケットに、これを」と、手の平に乗ったままの牡蠣そっくりの陶器に目をやった。
「これをしまってた。」
「これを、ね」
 周が猛ダッシュしてくる犬を避けようとして、金髪の女の人(きっと何となく私の好みの人のような気がする)にぶつかり、その瞬間いろんなものが弾ける場面が湧いてきて、どんな状況よ、泡のようだなと思った。この手の平に乗った美しい牡蠣を見ていたら、再構築されるぶつかり合いのように感じた。
「それでさ」         と、周が続ける。
「それを見て名月みたいだな、て思ったの」
「私?![#「?!」は縦中横]」少しだけ声が上ずる。
「べつにさ、今までそんなこと考えたことなかったけどさ。名月は、鮑でもなく、アサリでもなく、牡蠣だよなぁぁぁ、て」
 何なんだ、それは。一瞬ポケットに仕舞われるこの牡蠣を見て、そう出てくるその思考はなんなんだ。聞きたい気持ちは後にして、先を話す周の言葉を聞いていた。
「だから、思わずその人にこれも創ったものですか?て聞いてみたんだ。そうしたら「はい、そうです」て言うから、これ見たら思い出した人がいて、今からその人に会うんだけど。だからその、買いたいんだけど、売って貰えませんか?て、言ってそれで…」
「売ってもらえたわけね」と、私は微笑んでいた。
「そういうこと。あ、それでねその人がこれ」 
 周が1枚のポストカードを取り出した。
「詩と陶芸?えー、その方の展示なんだ。もうすぐじゃん」
「よかったら、来て下さい。て」 
 何だかすごく嬉しくて、私は絶対行こう!と言った。
 ザッとことの流れを話し終えた周は、黒板メニューに目をやると
「あんじゃん、牡蠣」と笑った。
「そうなの。あるんだよ」と私も笑った。
 ウエイターを呼び、牡蠣とロックフォールのグラタンを注文する。私にも要る?というように目配せをする周に、ううんという合図のように首を横に軽く振った。
 ワインに口につけながら
「そのピアス、今日はこれに置いたらいいね」と、周が言う。その言葉に下腹の底が一瞬熱くなったように感じ、ワインが効いてきたのとよく似た感覚だと感じながら、
「うん。そうだね。私もそう思う。ピッタリだね。」と、答える。
「私、牡蠣食べれないんだけどさ、それでもよかったみたい」
 牡蠣が食べられなくても、方法はいくらでもあったみたいだ。
 そして、今まで考えたこともなかったような言葉や気持ちや行動が湧き出てくるのが作品というものなのかもしれない、と気づいた。
「シュウ、本当にありがとう。」
 そこへ、2杯目の飲みものであるスパークリングワインと取り皿が運ばれてきた。

 

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