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「推し」という概念がしっくりこない

ぼくは「推し」という言葉がしっくりこない。それはドルオタ、アイドルファン界隈の言葉だと思っていた。でも、どうも近頃はそれだけじゃなさそうだと気づいた。Vtuberや萌えキャラに対してもたびたびこの言葉が使われるのを目にしたからだ。

この「推し」というのがぼくにはどうにもよくわからない。いや言わんとしていることはなんとなくわかっているつもりだ。けれども自分の「好き」をアピールするための言葉のチョイスとして、「推し」というのがしっくりこないのだ。

ぼくはいま31歳で10代の頃からインターネットに入り浸っていた。オタクコンテンツにも触れてきたけど、(広い意味で)「好き」を表す言葉の変遷を思い返すと興味深い。

萌え」「俺の嫁」「シコ(い)」「ママ」「バブみ」……

これらと「推し」の違いははっきりしている。前者が自分と対象が閉じた1:1の関係性で結ばれるのに対し、「推し」は自分を含む多数:1の関係性であるニュアンスを含んでいるように思う。

言うなれば前者が前島賢氏のいう「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性」=セカイ系的関係性であるなら、「推し」というのは同好の士の共感を前提とした共有(シェア)される関係性じゃないだろうか。

「◯◯萌え〜」「◯◯は俺の嫁!」というのは言い切り、自己主張だろう。強い言葉を使えば所有権のアピールとも言えるかもしれない。対して「◯◯推し」というのは、自己主張のニュアンスを含みながらも、同じ推しの者との繋がり、共感を暗に求めているように感じる。

では、いまどきのインターネット(?)では、好きを表す言葉がすべて推しに駆逐、あるいは吸収されてしまったのだろうか?

とここまで書いてて「俺の嫁」etc…に比較的近しいニュアンスの言葉があることに気づいた。「ガチ恋」だ。

興味深いのが、この「ガチ恋」という言葉、文字通り"ガチで恋してる"というケースで使われる場面より"ガチ恋オタク"などと揶揄したり、自らガチ恋勢を名乗ることで自虐っぽく振る舞ったりするケースをたびたび目にすることだ。

これは、何者でもないぼくたちが「好き」を向ける対象は、手の届かない存在であることを暗に示唆しているのか。またそれを共通認識として広め、自分だけのものだと感じている者を排斥、滑稽な目で見るようなニュアンスを感じる。

つながりと共感の時代に、他者を顧みずに所有権を主張するような言葉選びはナンセンスなのかもしれない。「お前が◯◯を好きなのはわかった。でも俺も◯◯が好きなんだ」という中で、出しゃばることなく「好き」を主張できる言葉として「推し」が定着したのかもしれない。「俺が俺が」と言い争うように「好き」を主張し合っていたあの頃の空気が懐かしいのは、自分が歳をとったせいなのかもしれない。

でも、あえてぼくは主張したい。もはやほとんど誰も知らないキャラクターかもしれない。それでも、ぼくは声を大にして訴えたい。

芙蓉楓は俺の嫁!


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