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「花束みたいな恋をした」で思い出した大学生時代

花束みたいな恋をした」の感想をTwitterで眺めていたら大学生の頃のことを思い出した。

当時もぼくは引っ込み思案な……陰キャ大学生だったわけだけれど、異性に興味がないわけではなかった。しかし「クラス」という概念が無い大学で、たまたま同じ授業を受けていた異性に自分から話しかけることはぼくにはハードルが高かった。そこでぼくなりに異性と知り合うため思いついた策が、なんらかの場所の常連になって、おなじく常連の異性と仲良くなるというものだ。

場所の候補はいくつかあった。広大な敷地を持った川沿いの公園、駅の近くにあるミニシアター、なぜか店長さんに即顔を覚えられて行くたびに親しげに話しかけてくる古着屋(こんな見るからに陰キャなのに古着屋なんて来るんだ、と珍しがられたのかもしれない)、白髪をかっちりと撫で付けた店主がいる喫茶店(メニューはリーズナブルだしひとりの客が多くて静かだし全席喫煙可だしでよく利用していた)。最終的に、ぼくが選んだのは図書館だった。

その図書館は緑の多い坂道を上った高台にあった。比較的新しめの建物は小綺麗で、外の小道を歩けば街が見下ろせる。いい感じの場所だ。ぼくは大学で文学を専攻していたから、図書館というのはお誂え向きの場所だ。ここなら、書を好む物静かで素敵な女性と知り合えるかもしれない。そう思った。

またその図書館はぼくの通っている大学とは別の大学が近くにあった。その大学(X大)はぼくの大学(Y大)よりも少しだけ偏差値が低いところで、もしそこの学生と知り合えたら「えっすごい! 頭いいんですね!」とプラスに働くのでは、という小賢しい目論見もあった。

最初はただ普通に本棚を巡って本を借りて、そのまま安アパートに帰っていた。しかし当然ながら、カウンターのおばちゃんと事務的なやり取りをする以外に誰かと言葉を交わすことはなかった。うん、それはそうだろう。図書館で、フロアを歩いている見知らぬ人に話しかけることなんてそうはない。

次にぼくは、図書館の閲覧室を利用することにした。閲覧室は長机がいくつか配置されたエリアで、借りた本をそこで読もうと思ったのだ。しかし足を踏み入れて驚いたのは、閲覧室で本を読んでいる人をほとんど見かけなかったことだ。そこには学生か社会人か比較的若い人が多く、ほとんどが筆記具を手になにかの勉強をしていた。そう、閲覧室は実質、無料の自習室と化していたのだ。

べつに本を読んでいたところで誰かから咎められることもないだろうが、隣近所の人たちが勉強をしている中、ひとりで黙々と読書をすることに小心者で自意識過剰なぼくは耐えられそうになかった。だからぼくもこの際、なにかの勉強をすることにした。

とはいえ教員資格を取るつもりのない文学専攻の大学二年生に、腰を据えて勉強することなどそうはない(そんなことはないだろうといまはぼくも思うけれど、少なくとも当時のぼくには思いつかなかった)。なのでせっかくだし、なにか資格の勉強をすることにした。

実習や実務経験が要らず、学習難易度がそこまで高くなく、試験範囲のボリュームもそう大きくなく、持っていてそれなりに役に立ちそうな資格……ということでぼくが選んだのは、日商簿記三級だった。こうしてぼくは丘の上にある素敵な図書館で、なぜか簿記三級の勉強をはじめたのだった。

そうしてぼくが閲覧室に通うようになってひと月が経つか経たないかくらいのことだ。まったく触れたことのなかった会計の勉強に疲れたぼくは、図書館の外にあった自動販売機で缶コーヒーを買って、近くにあった、正面に灰皿が設置されたベンチの真ん中でひと息ついていた。

「ここ、いいですか?」

ぼくに話しかけられていることに気づかず、顔を上げたのは数秒後だった。そこにはすこし困ったように眉を寄せながら、口元に笑みを浮かべた女の子が煙草を手に立っていた。

この女の子はいま、ぼくに話しかけていて、灰皿の前にあるベンチのど真ん中を占領するぼくに、どちらかの端に寄ってほしい、自分も座りたいのだと告げている。脳が高速でいまの状況を理解する。

「すっ、すみません。どうぞ」

慌ててぼくがベンチの左端に寄ると、女の子も「いえ、すみません」と笑いながら右端に腰かけた。

そうしてしばしのあいだ、お互いぷかぷかと煙を吐き出していた。図書館に通うようになってはや一ヶ月ほど。ついに待ちに待った異性と知り合うチャンスだった。それなのにぼくというやつはどうにも居た堪れない気持ちになって、この一本を吸い終わったらもう帰ろうと思っていた。

「あの……」

彼女が口を開いたのは、ぼくの煙草がフィルターまであと一センチくらいになったときだった。

「いつもここ来てますよね? 大学生ですか?」

そんなにいつも喫煙所にいただろうかと首を捻りかけて、「ここ」というのが図書館を指すのだと気づいた。

「えと、そんな感じです」

「そうなんだ! 私もX大なんですよ」

「あっ、ぼくはY大なんですけど……ここ、綺麗だし知り合いにも会わないから落ち着けて好きなんです」

ぼくがY大と言った瞬間、彼女の顔に「なんでわざわざ……?」という疑問が顔に生まれかけていたのを先回りして封じた。残念ながら「えっすごい! 頭いいんですね!」という展開にはならなかった。考えてみれば、ぼくと彼女の大学は偏差値を平均すれば1か2くらいしか変わらないのだ。そもそも入ったあとにいつまでも偏差値を気にしているような人間がどれほどいるだろうか。ぼくは自分の小ささを突きつけられた気がした。

「わかります!」

鬱々とした思考に沈んでいきそうになったぼくを、はきはきとした声が地上に引き戻してくれた。

「ここ、なんていうかすっごくいい感じですよね! 大学にも図書館はあるし、わざわざ坂を上ってくる必要もないんだけど」

「……なんかつい、来ちゃう?」

「そう!」

視線を合わせ、互いに笑みがこぼれた。

それからぼくらは、この図書館でたびたび顔を合わせるようになった。図書館で、というか、図書館の喫煙所で、だ。

彼女は決して、誰もが振り返る美人というわけではなかったが、いつも明るく人懐っこそうな表情を湛えていて、日陰者のぼくには眩しい存在だった。彼女のおかげで、他人と、特に異性と話すのが苦手なぼくでもなんとか会話を紡ぐことができた。

彼女とはいろいろな話をした。といってもぼくには話の引き出しなんてろくになかったから、もっぱら彼女が話をして、ぼくが相槌を打つのが常だった。大学のこと、高校までのこと、初めてのひとり暮らしのこと、アルバイト先のこと、趣味のこと。彼女はひとつ歳下だったが、話すうちに敬語もくだけていった。

「『REC』は見た? 『ブレアウィッチプロジェクト』みたいなモキュメンタリーの……」

聞けば、彼女も映画をよく見るらしい。ゾンビ映画が好きな女の子にぼくは初めて出会った。それだけでもう、ぼくは彼女のことが好きになった。

彼女は別に本が好きというわけではない。基本的に明るい性格だし、煙草も吸う。「書を好む物静か」な女性ではないかもしれない。それでも素敵な女性だった。

彼女は居酒屋でアルバイトをしているらしい。折りの合わない同僚がいるらしく、愚痴を語ることもあった。いつも明るい表情でいる彼女が、不意に見せる暗く淀んだ横顔がぼくは好きだった。陽のあたる場所にいる彼女が、その瞬間はぼくのいる日陰に踏み込んできているような気がして。

ある日、ぼくは思い切って、駅の近くにあるミニシアターへ彼女を誘ってみた。彼女は快諾してくれた。そのとき気づいたのだが、名前こそ告げていたとはいえぼくらは連絡先も交換していなかったのだ。そのことが妙におかしくて、ぼくらは笑った。「昭和みたい」と笑う彼女の顔に、ぼくは胸がいっぱいになった。

そして数日後。それこそ映画にありがちな、雨が降ったりドタキャンされたりすれ違ったりすることもなく、ぼくらは無事、映画を見ることができた。

上映後、ぼくらは近くにあった喫茶店で夕食を食べながら、感想を語り合った。やっぱり劇場で見ると違う。小さいけれど。でもあのくらいの箱が好き。それはわかる。他愛ない会話をしながら、ぼくはタイミングをはかっていた。

ぼくはこの日、彼女に想いを伝えようと思っていた。一世一代、決死の覚悟だ。しかし結局、ぼくは喫茶店の中でそれを言うことができなかった。

喫茶店を出た頃にはすっかり夜も更けていて、ぼくらは彼女の乗るバス停まで歩いていた。ぼくはこのとき、焦りと自己嫌悪でいっぱいになりながらもそれを表に出さないよう必死だった。だから横を歩いていたはずの彼女が立ち止まったことにもすぐに気づけなかったし、突然くい、とシャツの裾を引かれたときには、とんでもなく間抜けな顔を浮かべてしまっていたと思う。

「……なにか。言ってくれること、あるのかなって」

それは、いつもはきはきと話す彼女にしては、歯切れの悪い物言いだった。振り返り、顔を伏せて表情の見えない彼女を見て、いよいよぼくも腹を括った。そして彼女を抱きしめると、ぼくは想いを伝えたのだった。

まあさすがに抱きしめたのは嘘だ。でも告白したのはほんとうに嘘。映画に誘ったのも嘘。喫茶店に行ったのも嘘。彼女がひとつ歳下っていうのだけは嘘。図書館の喫煙所で仲良くなったのは嘘。彼女に図書館で出会ったってことだけは嘘。「花束みたいな恋をした」も見てない。もしかしたら異性と知り合えるかもって図書館に通って簿記の勉強してたのは本当。簿記三級は落ちた。



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