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それを感じとる心

マイスター・ゼクンドゥス・ミヌティウス・ホラはいった。

時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全ながらも まねて象ったものなのだ。
- 『 モモ 』ミヒャエル・エンデ

ゼンマイやバネ、水晶振動子と歯車が組み合わさって時を刻む時計とは違い、人間の胸のなかにある時は、命が終わるまで片時も静止することなく変化し、反応する。それは形状を固定され、人工ルビーを配した歯車のような物質ではなく、動き続ける情報が胸のなかで形になったものだ。

だから物理的な制約の上で作られた時計は、一生懸命に時をまねても、変化する一部を切り取ってある面から見たものにしかならない。

しかしコンピューターの出現によって我々が手にした道具、ソフトウェアは少し違う。ソフトウェアは物理的な制約なく何でも作れる。自分の認知の限界に阻まれさえしなければ、歯車よりもいくぶん完成度の高い形で、人間の胸のなかにある概念を象ることができる。構造化されたプログラムはまるで、歯車やネジのようにも思えるが、実際は変化し続ける情報が編まれたものだ。

ソフトウェアデザインが他のデザインと比べて大きく異なり、かつエキサイティングなのは、どんな概念も実在化して、それを人が扱えるようにできる、という点だ。

道具とともに共進化してきた人類に、新たな性質をもつ道具がもたらされた。そしてソフトウェアは、私達が日常生活で利用するあらゆる製品やサービスに深く入り込んでいる。

OOUI

ソフトウェアによって実在化された概念を、ユーザーが現実の道具のように自由に扱えるようにするために生まれたのが GUI ( グラフィック・ユーザー・インターフェース ) だ。

近年では、OOUI として再び注目されている。複雑になっていく現場の要件によって手続き化してしまったソフトウェアから、ユーザーを解放するその思想は、そもそも GUI の誕生とともにあったのだが、ソフトウェア制作の大規模化、分業化の中で埋もれてしまっていた。

しかし、スクラムなど柔軟な開発手法や DDD ( ドメイン駆動設計 ) の広まり、エンジニアリングとデザインの双方を隔たり無く渡り歩く、デザインエンジニアといわれるような人材の活躍が、少しずつ現状を変えている。

またビジュアルデザインの観点からも、スキューモーフィックな UI デザインから物質感が排除され、より抽象度が上がったことにより、GUI の本質はグラフィカルであるということよりもむしろ、目的語→動詞の操作構文なのだということが、再認識されはじめている。

分断していたソフトウェアのビジュアルデザインと開発の両側から、押し出されるようにして、GUI が、ソフトウェアデザインが、本来の姿を取り戻していっているように思う。

そしてその先にあるのは、そのソフトウェアは何をどのように実在化させ、ユーザーをエンパワーするのかという、もっと本質的な問題だ。

ソフトウェアは、サービスの、業務システムの一部だとよく言われるが、そんな風に矮小化してしまっては問題を捉え損ねてしまう。ソフトウェアは人が使う道具だから、サービスや業務の意味を変える力がある。サービスや業務そのものだ。それは道具というものが人に作られるものでありながら、人を作るものだからだ。

概念の実在化、つまり OOUI におけるオブジェクトの抽出において、オブジェクト化できるのは、デジタル化された音楽とか、写真とか、筆とか、物として捉えやすいものだけではない。それは活動であったり、経験であったり、進捗であったり、あらゆるものが実在化できる

残念ながら、OOUI の手法に従ってプロセスをたどれば、自動的に最適なオブジェクトがたち現れてくるわけではない。それはデザインするなかでデザイナーが捕まえるものだ。

だからソフトウェアをデザインするデザイナーは " 片時も静止することなく変化し、反応する " 概念である情報をデザインする力と、それを感じとる心を身につける必要がある。

人間中心設計

OOUI は、人間中心設計のプロセスにおける「ユーザーの要求事項の明示」から「ユーザーの要求事項を満たす設計による解決策の作成」という飛躍部分、そのミッシングリンクを埋めるものとしても注目されている。

人間中心設計とは、製品やサービスの開発において利用者に注目し、その体験を軸にした設計のプロセスである。ユーザーを観察し、分析し、制作し、評価する一連の手法は、Webサイトのデザインや、ソフトウェアのデザインにおいても多く取り入れられており、情報デザインの手法としても確立されている。

しかし、こと受託制作の現場において、人間中心設計のプロセスは合意形成のためツールとしての側面が強い。そこではペルソナも、カスタマージャーニーマップも、プロジェクトメンバー間の齟齬をなくし、不整合をうめるものとして機能する。
とくに人格をもったペルソナは、ブレやすい集団の意思を統一するプロパガンダとしてよく活用される。判断が別れた時、ペルソナならどうするか、という問いは指針として明快だからだ。

またユーザビリティテストや、ユーザーインタビューなどの調査、アイデア出しなどのプロセスに、デザイナーだけでなくプロダクト関係者が参加することは、IKEA 効果のような副次的作用を生む。これは価値共創の支援となる。

当然の事ながら、これはいちデザイナーの現場での体験と、業界の人々から見聞きしたものについての話であるから、全てがそうなっていると言うつもりは毛頭ない。そしてプロセスにあるツールを、合意形成のプロパガンダとして使う事について異論があるわけでもない。その必要性は重々承知している。 そもそも私はスペシャリストでも専門家でもない。

しかしこのような現場において私は、人間中心設計やユーザー視点が、時に驚くような使われ方をするのを目撃するのだ。

ユーザーとのタッチポイントを増やして売上をあげよう
サービスにとって理想的なユーザーの行動を設計して導線をつくろう
毎日情報を入力してもらうためにもっとサクサク入力できる UI にしよう
必要な時以外も使ってもらうためにゲーミフィケーションを取り入れた体験設計をしよう

ユーザーの視点で考えられた企業利益のためのプロダクト。これではまるで狩猟者が罠をはるプロセスではないか。ユーザー視点とは、ユーザーを罠に嵌めるためにデザイナーが獲得するパースペクティブなのだろうか。

UX デザイン

UX とか UX デザインという言葉は、現在少し面倒な言葉になっている。UX という言葉が使われる時、それが一体何を意味し、期待されているのかを紐解く必要があるからだ。UX における X に各々が思い思いのものを好き勝手に代入している。これが X ではなくて E だったら、こんなことにならなかったのかもしれない。

ユーザーインタビューの分析結果やペルソナを用いてユーザーの視点にたち、どうすればユーザーがもっと良い気分になって、もっと多くの時間やお金をサービスに使いたくなるかを考える。これを UX デザインだと言う人もいる。ユーザーを分析してユーザーの体験設計するのだと。

確かに、私達の文化の中にはあえて相手の罠に嵌ること楽しむようなものはある。私がよく UX デザインと呼ばれるものの例として出すのは、桂離宮だ。

桂離宮はまるで舞踏譜のようだと言われるくらい、その導線や目のやりどころが完璧に計算されている。そうやって設計された美しさを皆が同じように体験し、それを楽しむ。そういうものも素晴らしいと思う。

しかしすべてが桂離宮である必要はないだろう。ユーザーエクスペリエンス、つまり利用者の体験はデザインの指針となるものだが、それはユーザーの視点に立って体験を分析することをいうのであって、思い通りにユーザーに何かをさせるためのデザインをいうのではないはずだ。たとえそれが、ユーザーにとって良い体験なのだとしても。いつだって体験は、ユーザー自身のものだ。

エンパワー

先日、就職情報サイトが学生の内定辞退率を予測したデータを企業に販売するというあまりに Evil なサービスが問題になった。これもまた企業側のユーザーの視点に立って、就職情報サイトの利益を考えた結果なのかもしれない。
しかしこの内定辞退率は、学生側の不利益になることはもちろん、情報を提供される企業の利益になるのかも甚だ疑問である。なぜなら、内定辞退率を採用に利用した企業は、人を採用するのに人を見ていない。

人と企業、人と人の出会いを活性化するサービスにも関わらず、内定辞退率を実在化して扱えるようにしたことで、人が人を見なくなってしまう。こんなものを作ってはいけない。

何をどのように実在化するのか、そしてそれは一体何に力を与え、誰をエンパワーするのかに注目して、ソフトウェアをデザインをする。人間中心設計や、ユーザーエクスペリエンスは、そのために必要なプロセスであり、指針であるはすだ。

そもそも人間は朝と夜で全然別なことを言っていたりする、不可解な生き物だ。人間を軸にするということは、人間には中心に芯みたいな核たるものがあるという幻想を共有することによって成り立っている。

創造的 であるというのは、要するに、人間的であるということに他ならない。
- 『 芸術と政治をめぐる対話 』ミヒャエル・エンデ

人間とは生まれながらに好奇心を持った創造的な存在である。

ならば人間中心設計は、創造的な人間を中心に、その人自身が設計することを前提としているはずだ。それはもはや、人間を中心に置いているとは言えないのかもしれない。

そしてたぶん、そんな設計を実現するプロセスとは、ただ調査(評価)と実装を延々繰り返すことになるのではないだろうか。なぜなら作ったものを使うと、その影響をうけて人は変化してしまうから。

その中で私達デザイナーはうまく感じとり、捕まえなければならない。それを感じとるための、心を使って。

光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじように、人間には時間を感じとるために心というものがある。
もしその心が時間を感じとらないようなときにはその時間はないもおなじだ。

- 『 モモ 』ミヒャエル・エンデ


デザイナーの仕事

デザインは、デザイナーという専門家によってなされる閉じたものではない。すべての人がデザインをする。
ではその中でデザイナーの存在価値とは、デザイナーの仕事とはなんだろうか。

ひとつはアイデアを形にして、制作してみせること。

そしてもうひとつは、人と道具の関係を見つめ、それが一体何に力を与えるのかに、注意を払うこと。経済合理性の中で、うっかり人を罠にはめて消費を促すようなものを作ってしまうようなビジネスにおいて、その抑止力となることだ。ユーザーの視点を獲得した人々が、その視点を罠を仕掛けるために使うことを許してはならない。

それはデザイナーとしてのイデオロギーの問題でもある。人と共進化し、人に多大な影響を与える道具であるソフトウェア。だからこそユーザーを創造的に、つまり人間的にする、自由な道具を私は作りたい。それは人権とか、平和への羨望であり、何よりも重要な私の中にあるガイドラインだ。

制作の現場において、私達は受託ではなくパートナーだ、といくら言っても、経営戦略にかかわる大きな判断を任されるほどの信頼を得ることは難しい。かといって、邪悪に加担するくらいならと、数千万円の売り上げを反故にする権限を、職業デザイナーが持つことは稀だろう。抑止力になる道はけっこう険しい。

私はすぐに間違えるし、バイアスにまみれて気づかないうちに誰かを差別したり、それに加担したりしてしまうと思う。
自分の正しさを妄信し、それを振りかざすのもまた暴力だ。けれど、だからこそ私達は、デザイナーは常に、自身にこう問い続けながらデザインする必要がある。

あなたのデザインは何に力を与えますか?

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