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「曖昧さ」は人間の1つの魅力である

みなさん、こんにちは。【話を聞く人】をしているおかぴと申します。
記事を開いていただきありがとうございます。

このnoteでは私が毎日学んだことを発信しています。人生や”らしく”生きることなどが私の大好きな分野なので、そこら辺のテーマが中心になると思います。

今日は「人間の曖昧さ」について。もっと言うと、「曖昧さは人間が人間らしくいられ、その人らしくいられる魅力」ということを語ります。

語るきっかけになったのは、今日ふと「人間って曖昧な考えや行動をとるな~」と思ったこと。ふわふわとしてるなと思ったんです。
だって、考え方1つを取ってもすごくいい加減じゃないですか。人って。自分もそうですが、確証もないのに「明日までにやっとくね!」とか言っちゃうし、生きているのは今なのに「将来はこうありたいな」とか考えちゃうし。

もっと言えば、一貫していることってそうそうないと思うんです。価値観だって、中学・高校とかに比べたら確実に変化しているし、物事の判断基準・善し悪しも変わっているし…

曖昧で、ふわふわしていて、一貫していなくて…それが人間らしさだなぁと、そう思います。曖昧な生き方ができているから、曖昧な意見も許せるし、曖昧な未来も信じられるんじゃないでしょうか。
「0か1か」では決められない、ハッキリしない存在。個人の面白さを引き出している要因も曖昧さにあるのかもしれません。
もし曖昧さが許されない存在だとしたら…ぞわっとしますね。誰かこの設定で小説を書いて欲しいです。

ただ、そんな人間にも1つだけ一貫性のあるものがあります。
それは、「死に向かってひたすら歩いている」こと。もしかしたら死ぬかもしれないし、ずーっと生きるかもしれない、なんて人はいませんよね。

死は確定している事項なんです。どんなに立派な人でも、どんなに自分に自信がなくても、どんなに幸せな人でも、いつかは死を迎えます。

確定している死。そこに向かっていく曖昧な存在。

曖昧だからこそ、限られた時間の中に意味や哲学を見出そうとして、幸せや人生の価値などの不確定な概念を確定させようとする。
なんとも面白い構図ではありませんか。

そしてこの記事を書いている私自身も、ただのちっぽけな、死に向かっている曖昧な存在でしかありません。それならばせめて、この曖昧さを楽しみながら死に向かっていこうと思います。
それではこのあたりで失礼します。また明日も前向きに頑張ります。

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