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31歳で家業を継ぐ。想像を絶するプレッシャーに押し潰されそうだった

はじめまして。日廣薬品の金尾元信です。

当社は、祖父が昭和27年に創業した会社です。本社を東京都世田谷区、工場を杉並区に置き、従業員数は50名程度の小さな会社です。父が祖父の後を継ぎ、半世紀以上にわたって、絆創膏ひとすじに製造販売を続けてきました。

3代目社長に私が就任したのが5年前31歳の時です。

社長になって、はじめてわかったこと。

それは、社長には、知識や経験以上に「胆力」が求められることです。

様々な経緯が重なって、あれよあれよという間に社長となった当時の私は、心の準備が圧倒的に足りていませんでした。社員やその家族の生活が自分の判断ひとつにかかっていると思うと、どんな些細な判断にも時間がかかりました。決断後も自問自答を繰り返し、眠れない日々が続きました。

自分で意思決定し、すべての責任が社長の自分にある。その立場になって、すべての意思決定が怖くなりました。これで合っているだろうか、社員はついてきてくれるだろうか。そう考えだすと、怖くて、怖くて、仕方がありませんでした。お恥ずかしい話、妻の前で泣いたことも何度もあります。

本来の私は、心の強さにおいても、人間性においても、社長の器ではありません。それでも、祖父と父が残してくれた、この素晴らしい会社を次世代に残したい。その想いから、こんな弱い私でも、どうやったら社長としての責務を全うできるかを必死に考えてきました。そして、現在は、私なりの私が目指すやり方を見つけることができました。

プレッシャーに押し潰されそうだった自分。

そんな私だったからこそ発信できることがあるかもしれない。同じように責任あるポジションでプレッシャーと日々向き合っている人をちょっとでも勇気づけられたらと思って、私のこれまでをnoteに書いてみることにしました。

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まさか自分が家業を”継ぐ”とは思わなかった。

私の家は会社のすぐ近くにあり、外に出れば社員の皆さんと顔を合わせる環境で育ちました。ただ、子供時代の私は、父の仕事や会社への関心は乏しく、ましてや自分が父から会社を継ぐとは夢にも思っていませんでした。

私には3歳年上の兄がいます。

兄はとても優秀で、人望も厚く、リーダーシップもあり、常に多くの人が兄を慕っていました。小中高と兄と同じ学校に通っていた私は、進学するたびに「あの金尾さんの弟か」と先輩たちに可愛がってもらえました。そんな恵まれた環境で育ったので、兄に対する感謝と尊敬の念は自然と募っていきました。

将来的には、父の後を兄が継ぐ

そして、私が会社に関わるのであれば、兄を支える立場だと考えていました。

私は兄と違って、リーダーシップを発揮するタイプではありません。どちらかというと、一人で黙々と何かに没頭することが好きな人間です。また、私は歴史が好きで、戦国時代の武将のように、家業は長男が継ぐのが当然と考えていました。そして、豊臣秀吉を支えた秀長のような、兄を支える優秀な弟像に憧れを抱いていたのです。

“いつか”に備え、新卒でメガバンク入社

私は、大学卒業後、三菱東京UFJ銀行(現三菱UFJ銀行)に入社しました。

将来、家業に戻った時に自分の知識や経験を活かせるように、就職活動では「中小企業を支える仕事」を軸にしていました。自己分析をするうちに、家業のおかげで自分が育てられてきたことに気づき、家業も含む中小企業を支えたいと思うようにもなりました。

最終的に、銀行を選んだのは、財務・経理面から兄を支える未来もあると思えたこと。また、銀行で法人融資を担当すれば、様々な社長と直に話す機会を持つことができ、経営者の考えを学べると思ったこともあります。それに、メガバンクは新卒でないと入社が難しく、大企業での経験を積んでみたい気持ちもありました。

もちろん、当時は、家業に戻ることは一つの将来の可能性でしかなく、銀行で自分のキャリアを築いていきたいと本気で考えていました。様々な会社をファイナンスの面から支えられる人材になりたいという大望も胸に抱いていました。

ただ、結果的には、4年間働いた後、銀行を退職しました

振り返ると、幼少期から恵まれた環境で育ってきた私には、競争が激しく、シビアな判断が求められる金融業界で働く精神的なタフさが足りなかったのです。

精神的に追い詰められ、”逃げたい”一心で退職

銀行で働いた4年間は、苦しい仕事の連続でした。

特に思い出すのは、リーマンショック後です。業績が悪化した取引先が増えたことから、債権回収専門の担当になった私は、自分の父のような年齢の社長がいる会社に訪問し、前向きな融資の話ではなく、返済猶予や回収など、後ろ向きな話ばかりしていました。

銀行業の本分は、お客様から預金を預かり、それを貸出に回し、金利を稼ぎながら、確実に回収することでお客様の預金を守ることです。銀行業の本分からすれば必要な仕事だと頭では理解していましたが、簡単に割り切ることはできませんでした。私の場合、実家が中小企業を営んでいたことも影響していたかもしれません。

退職の時点では、かなり精神的に追い詰められていました。仕事中に手が震えたり、書類を作成しながら涙が出たり。とにかく、逃げたい。とにかく、仕事から離れて、気持ちを落ち着かせたい。その一心でした。

銀行で働きはじめて4年目の2011年の正月、実家に戻った際に、両親と兄に銀行を辞めると伝え、大学時に勉強していた税理士試験を再度目指すと話をしました。父からは勉強をするのはいいが、その間は家業に席を置いたらどうかと言われ、その提案に甘えることに決めました。本当に恵まれている環境だと思います。

そして、2011年3月。

3月末退職で、私の退職届が受理された後、東日本大震災が起こりました。日本全体が未曾有の危機に陥る中で、家業も一部の原料が入荷できないなど大混乱となり、私も税理士の勉強を悠長にしている場合ではなくなったのです。

父からの期待も受け、”3代目社長”へ就任

東日本大震災という緊急事態に際し、我が家では家族会議が開かれました。

原料が入荷できないと、工場は停止してしまいます。ただ、大震災で日本中が混乱しているため、国内から入荷できる見込みは立ちません。この状況を打破すべく、総合商社に勤める兄は、商社で培った世界中のネットワークを活かし、海外から原料を入荷すべく奔走してくれました。

兄は外から、私は内から。
兄弟で一緒に家業を盛り立てていくことを誓いました。

2011年4月。私は父のもとで働きはじめました

その後、父からの期待が次第に膨らんでいくのを感じていました。父は、私たち兄弟に家業を手伝ってほしい、継いでほしいとは、決して言いません。ですが、内心では思うところがあったのでしょう。私が会社に関わることを喜んでくれているようでした。

他方、大震災による影響か、父が若干、体調を崩しているように見受けられました。私としても、そのような父に無理をさせたくありません。仕事中心の生活が続き、気がつくと、税理士の勉強をする時間はなくなっていました。

2011年6月、私は正式に専務取締役に就任し、父を補佐していくことに決めました。銀行で働いていた数ヶ月前までは、考えもしなかった人生の急展開です。

とはいえ、会社についても、製品についても、わからないことばかり。父や社員に支えられ、イチから学んでいきました。そして、2013年に父から社長を交代してほしいと話があり、2年間の猶予期間を経たのちに、2015年に日廣薬品の3代目社長に就任しました。

“あなたでなくてはならない”という仕事がある幸せ

もちろん、使命感や義務感だけで、私は社長を継ぐ道を選んだわけではありません。

私が日廣薬品で働きはじめて一番驚いたのが、社員の心根です。

お互いの仲がよく、よく協力しあっていて、思いやりの心を持っている人ばかり。そして、みんな、自分たちの商品に強い愛着と誇りを持っています。お世辞抜きに、なんて素晴らしい人たちが揃っている会社なんだと、思いました。

オーナー企業の会社の社風や社員の人柄は、オーナーの人格が大きく影響を与えると言われています。会社で働きはじめたことで、日廣薬品の文化を築いてきた祖父と父の偉大さを肌で感じました。そして、この会社を、未来に残していきたいと真剣に思うようになったのです。

また、能力が足りているかは別にして、「あなたでなくてはならない」という仕事が目の前にあることは幸せなことだと思います。

日廣薬品で働きはじめてから、「会社に入ってくれて、ありがとう」「後継者がいなくて、この会社の未来はどうなるのかと不安でした」と、様々な社員から声をかけられました。帰ってきただけでありがとう、と言われるような仕事が自分にあるなんて、なんて幸せなことなんだろうと思いました。

こうして、家業を継ぐことが、自分の人生を賭してやりたいことへと変わっていきました。

“失敗しないための学問”を学びにグロービスへ

ただ、冒頭でも書いたように、社長就任と同時に、想像を絶するような重圧に押しつぶされそうになりました。

専務時代の4年間も自分が社長になったつもりで、様々な判断をしていました。特に、社長を継ぐことが正式に決まってからの最後の2年間は、その意識を高め、心の準備はしてきたつもりでした。

しかし、振り返ってわかったのは、結局は「つもり」の域を出ておらず、最終責任は父がとってくれるという甘えがあったことです。

社員を幸せにするために、何が自分に必要か?
どうすれば、自信を持って判断できるだろうか?

そう考えた末に行きついたのが、外に学びを求めるという決断でした。

たまたまグロービス経営大学院の存在を知り、藁にもすがる思いで体験授業を受け、「自分に必要なのはこれだ!」とすぐに申し込みました。

学ぶなかでわかったのは、経営学とは「失敗しないための学問」ということです。

経営理論や様々なケースについて学ぶことで、「こういう判断をすると、会社や事業が失敗する」というパターンが見えてきます。もちろん、教科書通りにいかないことも多々ありますが、一定の定石を知ったうえで意思決定することで、迷いや悩みは減ります。

学びを深めるうちに、自分たちでコントロール可能なリスクと、コントロール不可能なリスクを冷静に切り分けられるようになり、考えても意味がないことに思考や時間を奪われ、精神的に疲弊することが少なくなりました。

社員の前で、社長を辞めるまで”禁酒”を誓う

加えて、グロービスで学ぶことで、自分がいかに甘い生活をしてきたかも痛感しました。

一緒に学ぶ仲間は、経営者や大企業の中間管理職といった人たちばかりなのですが、彼らは日々の生活を律していました。それは、予期せぬことの連続のビジネスにおいて、心身ともに常にベストなコンディションで判断や行動ができるようにするためです。

彼らと接するにつれ、自分には会社を背負う覚悟が足りていないと気づきました。

それからは、「毎日、何が起こるか分からない」「明日、会社や事業の命運を左右するような判断を迫られるかもしれない」と自分に言い聞かせ、常にベストな状態で会社に行けるように準備をするようになりました。

その変化のひとつが、禁酒です。

私はお酒が大好きで、専務時代は社員ともお酒をよく飲みにいっていました。ただ、常にベストな状態を保つには、お酒とは縁を切らねばならないと思い、社員の前で「社長を辞めるまでは禁酒する」と宣言しました。それ以来の数年間、1滴もお酒は飲んでいません。たまに夢の中で飲んでしまい、まだまだと反省します。

また、早寝早起きで生活のリズムを作ったり、パーソナルトレーナーにアドバイスをいただきながら体を管理したり、食事にも気を配ったりと、生活を変えていきました。体重は90kgから72kgまで落ち、専務時代の私と今では別人になっています。

規則正しく生活し、身体を健康に保ち、毎朝ベストな状態で会社に行く。これだけで、精神的に追い詰められることは減りました。身体と心はつながっている、と実感する毎日です。

“社員の幸せ”を企業理念の中心に据える

ただ、判断に対する精神的なプレッシャーは和らいでいったものの、会社の進むべき道を考える時に、何を拠り所に判断すべきかを迷うことが多々ありました。

それもそのはずで、日廣薬品では、企業理念が明文化されていなかったのです。

私は数年かけて、企業理念を明文化していきました。創業者の祖父の残した言葉、父から聞いた言葉、働いている社員の言葉、引退した社員の言葉…それらすべてを参考にしました。

祖父は「社員が幸せならそれでいいんだよ」と言っていました。
引退する社員は「この会社で働けて良かった」と言いました。

そうして明文化された日廣薬品の企業理念がコチラです。

“日廣薬品で働く社員が
 これまで以上に誇りを持ち
 働いて良かったと思える会社を作り
 次の世代に確実に伝える”

この社員の幸せを中心とした理念を定めてから、悩むことはなくなりました。もちろん、簡単に答えが出ないこともあります。でも、そういった時は、社員と対話をしながら、理念に照らしあわせて、じっくりと考えていけばいい。そう思えるようになりました。

また、理念を明文化したことで、お金の使い方の優先順位も明確になりました。

日廣薬品では、人への投資を最優先にしています。人は自分のやりたいことを実現したり、自分の成長を実感できた時に、仕事のやりがいを得るものです。社員の教育や、社員が「やりたい」と手をあげたことを応援するためにお金を積極的に使うようにしています。

例えば、日廣薬品では、会社が推奨する講座のみならず、社員自らが探してきた学びに対しても、基本的に全額の補助を行っていて、社員一人当たりの教育費は、私たちのような規模の企業からすると大きな額になっています。こういった思い切った判断が、理念を定めたことで、自信をもって下せるようになりました。

“ファミリーポリシー”を社内外に公開する意味

また、経営について勉強するなかで、「ファミリービジネスマネジメント」という言葉があることを知りました。私なりにこの言葉を解釈すると、「同族会社特有の強み・弱みを踏まえた上で、ビジネス・ファミリー・株の所有という三つの、時に相反する要素を調和させていくことを目指す学問」だと理解しています。

上場会社と違い、ファミリービジネスの会社は、オーナー家族がすべての株を持っているので、会社の経営がうまくいっていても、オーナー家族が不仲になると会社が混乱に陥ります。いわゆる「お家騒動」です。場合によっては、それで会社が傾きます。

ファミリービジネスマネジメントを学ぶなかで、ファミリービジネスの会社にとって、株主であるオーナー家族のマネジメントも重要であることを知りました。

そこで、日廣薬品のオーナー家族である金尾家のファミリーポリシーを、私の妻と兄夫婦と一緒に定めていきました。父や母、祖父や祖母が大事にしていた考えや、金尾家の一員になってくれた配偶者の二人が生まれ育った家庭が、何を大事にしてきたかも聞きながら、ゆっくりと、時間をかけて作成しました。企業理念の、家族版のようなものです。

ファミリーポリシーを定めてからも、数カ月に1回、4人で話し合いの場を設けています。ポリシーを読み返しながら、将来の相続時に起こりうる課題の整理や、日常のちょっとしたことまで、様々な話を交わし、良好な関係を築くコミュニケーションの場としています。

現在、金尾家のファミリーポリシーは、日廣薬品の社員にも共有し、日廣薬品のホームページにも掲載しています。オーナー家族である私たちが、どういうファミリーを目指しているのかを、社員にも、会社と繋がりをもつお客様・お取引先様・近隣住民の皆様にも知ってもらいたいと考えたからです。

学びを怠った時が、”社長引退”の時期

ここまでに書いたような経緯で、私個人としても、会社としても、ファミリーとしても、どうありたいかの姿が明確になり、自分の決断に迷いが晴れていきました。

「家業に人生をかけ、自分の判断の結果を逃げずに全て引き受ける」

その覚悟が芽生え、怯むことなく、前を見ることが、現在はできています。

会社の株主たるファミリーは、ファミリーポリシーに即し、オーナー家として身を律し、会社や社員に向き合う。会社は、社員の幸せを中心に据えた企業理念を追求する。そして、社員は、お客様を第一に考え、ビジョンや行動指針に即し行動する。

想いが連鎖し、商品と共に想いがお客様へと伝わり、未来へとバトンをつないでいく

これが、私の目指す会社のあり方です。

社長就任時には、想像を絶するプレッシャーに押し潰されそうでしたが、学び、出会い、支えられることで、ここまで来ることができました。繰り返しますが、本来の私はメンタルが弱く、とても社長の器ではありません。本当に、いい縁に巡りあえたと感謝しています。

とはいえ、私も、日廣薬品という会社も、まだまだ発展途上です。

当社は、2022年創業70周年を迎えますが、大切に守っていくべきものがあると同時に、理念に照らし合わせながら、変化を恐れずに挑戦することも必要です。

そのためには、私自身が変化し、成長を続けることによって、会社全体に学びと変革の風土を根づかせることが重要だと考えています。そして、道のりはまだまだ長いものの、社長就任からの5年間で、その第一歩を踏み出せたのではないかと考えています。

裏返せば、トップが学びを怠ったり、変化を恐れたりすれば、社員を幸せにはできません

学びを怠った時が社長引退の時期と心に定め、これからも学び続けていこうと思います。

井手さん記事04_2

編集協力:井手桂司

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