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操縦士と少女が繋いだその手に

My God, what have we done?

広島に原爆が投下された時、エノラ・ゲイ号の副操縦士はその光景を目の当たりにして、メモにそう書き残したそうだ。

それから10年後。生後8ヶ月で被爆したある少女が、家族と共にアメリカに渡った。牧師の父が出演することになったテレビ番組に、家族も揃って出ることになったからだ。

少女はそこで、その副操縦士と対面する。

悪人だと思って、ずっと憎しみを抱き続けてきた人。いつか絶対に仇を取ろうと願っていた相手を目の前にしたのだ。

しかし、原爆投下時の様子を語る操縦士の目に浮かんだ涙を見たとき、少女は「自分の中の悪」に気づいたのだという。

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「どうしてそんな行動を取ったのかわからないけど、私は彼に近づいてその手に触れました。そしたら、彼は私の手をしっかりと握り返してくれたんです」

数十年前の夏、"少女"であった近藤絋子さんは私たちにそう語った。

近藤さんがクリスチャンという繋がりもあって、私の通う教会に講演をしに来てくださったのだ。

※近藤さんの体験談についてはこちらの書籍でも読むことができます。

75年前に起こった事について、私には何が「悪」だなんて簡単に言及することはできない。

きっと、私には想像もできないような苦難や痛みがそこには存在していたはずから。

被爆者はもちろん、操縦士たちにも。

けど、近藤さんのお話していた事は、現代に生きる私たちも、差別の絶えないこの社会で意識するべき思考なのではないだろうか、と考えた。

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争いが起こる時、そこには大抵「憎しみ」が存在する。

では、その「憎しみ」の矛先はどこに向いているのだろうか?

相手の「属性」なのか

または、その「人」自身なのだろうか

この社会に生きていると、そのどちらかを憎んでいる人が多いように感じる。

だけど、本当に憎むべき"対象"はきっとそこじゃないんだ。

「憎しみ」を向けるべき対象は、その人が犯してしまった「罪」そのものなのではないか?と私は思うから。

もっと言うと、その人にそうさせてしまった原因は何なのか?そうさせた裏側に何があったのか?もしかしたら、私が生きる社会自体に問題があるんじゃないか?って。

だって、そうした背景や社会構造に目を向けなければ、その「憎しみ」を解消することなんてできないはずだから。

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75年前に起こった事と、現代社会に蔓延る差別や争いといった問題は、決して同列に語ることなんてできない。

けれど、操縦士と少女が繋いだその「手」に、私は憎しみが解かれるのをみた。

現代を生きる私たちの抱える憎しみも、その対象を間違えないように。そして、いつかきっと解消できるはずだと、私は信じたい。







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