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純度をもった、創造性を生きる。


人が、表現や創造活動をしようとしたとき、


お金を得るため
評価を得るため
価値を認められるため


その、何か、を得るため、の、

表現や創造というものは、

その、ベクトルゆえに、
その、純度を失っていくことがある。





よろこびからあふれているものが、

結果として、
価値を認められて、
お金や評価になるのは、

何の問題もないのだけれど、

そこでもいつでも、
その純度は大切で。




とくに、価値の定義に、
非常に不確定な要素が多い、

音楽や創作や表現活動で、

お金を稼ぐ=仕事

という意識をもって、

それをしなければならないと思うと、




いつしか、その表現は、

商品、になって、

商品にするためにはどうなのか、

という目線が別の意味で重要になってきて、




それが、楽しめて、
ある意味での純度が、
キープできるひとは
良いのだけれど、

その表現が、商品として、
期待に応え続けながら、
供給し続けなければ、
ならないものになった結果、

その純度が、損なわれてくると、




表現を生業にしているものにとっては、

何が自分の表現だったのか
わからなくなってしまい、

それはもう死に値するくらい
ツライものになってしまう。




わたしも、かつて、

それで、とても、苦しんだり、

悲しいおもいもした。





表現することも、
創造することも、

誰にとっても、
素晴らしいことで、

本当は、それだけで、
じゅうぶんに
価値のあるものなのに、

どうしようもない無価値感に
さいなまれてしまうのは、

無意味なことだとおもう。




対外的な価値、というものは、
自分ひとりでは、
決めることができない。

必要としてくれる人がいて、
それに価値を感じてくれるひとがいて、
それを応援してくれるひとがいて、

はじめて、

価値が生まれて、
お金になったり、
評価になったり、する。




だから、誰でもが、
その価値を見出してもらえて、
そこで生きられるわけじゃない。

求めれば、誰でも、
得られるものじゃないんだ。

だから、

そういう存在になりたくて、
いくら頑張ったとしても、

ただ、空回りになってしまう。




認められなければ
表現する価値は
自分にはないと、

ひとは、評価を求めがちだ。

でも、それを求めるのは、
手放してしまった方がいい。




ただ、ただ、表現する。
それだけの熱量があるか。

何かを得るためじゃない
自分の純度をもった
クリエイトをし続けられるか

そこにだけ、集中すること。





あとのことは、

自力の範疇を、超えている。

自分の力でなんとかできるものじゃない。

それは、神様にしかわからないんだ。





表現はいのちのよろこび。

純度の高い表現は、

誰の表現も、
どんな表現も、

素晴らしく、美しいから。




おそれることなく、
表現し続ければいい。

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