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【随想】カテゴライズするって、良いの?悪いの?

東日本大震災の時、各テレビ局が災害関連以外で最も放送していたのはACジャパンの「ぽぽぽぽーん」ではないだろうか。少なくともこのCMを思い出すだけで、当時の震災の悲惨さ壮絶さが着いてくる。

時を経て今回の能登半島地震では、ACジャパンのCMは様々な形を取っている。防災に役立つ情報や互いの絆を深めようという啓蒙の形、そして1番印象に残ったのは「聞こえてきた声」というCM。
様々な描写を漫画の一コマで連ね、そこに出てくる吹き出しのセリフが男性女性どちらに聞こえますか?と問いかけてくるものだった。現代のダイバーシティを物語る作品だと感じ、CMの真髄を垣間見た気がした。

人の記憶は曖昧な物で、何か関連した物(音や匂い等)を介さないと鮮明に思い出せない事が多い。そういう意味で「ぽぽぽぽーん」は東日本大震災を思い起こさせるのに十分な役割を果たしている。またその逆も然り。あのCMが震災の記憶の一部となっていた。今回の「聞こえてくる声」は果たして…

「聞こえてくる声」を見て感じたのは、人は分類した方が物事を認識しやすくなるのではないか。「これはこう」と捉えるとその先の展開が想像しやすい。つまり一定の安心感を得られる行為が分類だと思う。
しかし、このCMは最後にそれを否定しているとも捉えられる。私はそう感じてしまった。だが、それで不安を感じたかと言うとそうでは無い。むしろ、その一つ一つがより興味深く思えた。

これと真逆な作用をしていると思われる言葉に「団塊の世代」がある。この言葉を見聞きした人は男性を思い浮かべる割合が多いのではないだろうか。もれなく私もその1人である。
だが、この言葉の印象を問うと千差万別。日本の高度成長期を支えた人々、ブラックを作った人々、色んな印象が出る。が、どれもオジサンしか出てこない。これほど多様で単一的な言葉は珍しいと思う。


そんな事を思っていたある日、とある番組で5人の「若手」表現者による対談を見た。とても面白かった。出演者は以下の通り。(敬称に「くん」や「さん」を付けると分かりやすいかもしれないが昨今の情勢を鑑み省略)

  • 「マイクパフォーマー」アンジェリーナ1/3

  • 「映像作家」今井環

  • 「漫画家」魚豊

  • 「脚本家・演出家」蓮見翔

  • 「小説家」日比野コレコ

食い入る様にこの5人の話に聴き入っていた。中々クセのある魅力的な対談でした。
そんな対談の最後は、早く「若手」をとっぱらいたいといった内容。そして、どうやら「Z世代」とカテゴライズされる事に嫌悪感を持っているとの事。マスの中の一人ではなく個人として見て欲しい気持ちを感じた。


人はこれまで様々な形の「社会」を形成してきた。それは生きる為、子孫を残す為の本能的な行為だと思っている。どこかに属した状態に安心感を得る人は少なからずこの本能的な物が作用していると思う。
そこからはみ出していく人が「新しいリーダー」の資質を持っているのかもしれない。例えそれが「腐ったミカン」だとしても。

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