第三話 拝啓、初恋に殉ずる

しほさんの前世が千鶴
Tさんが寿彦(ひさひこ)です


拝啓、初恋に殉する



陽炎に混ざって黒い影がゆらゆらゆらゆらと揺れている。千鶴はしかとその目で確認をして、そっとその場を避けて過ぎ去った。千鶴には変わった能力がある。それはいわゆる亡者を見たり、朝は快晴でもその夜になったら雨が降ることがわかったり、どこが火事になるのかわかったり、誰が死ぬかがわかったりする能力だ。人はそれを神通力と呼ぶのかもしれない。
昔の昔は、それを周りに全部言っていた気がする。でもいつからか言わなくなった。何がきっかけだっただろうか、思案に暮れながら、買い出しを済ませてしまう。醤油や砂糖、みりん、どれも重いものばかりだった。
「どうしたんだい、千鶴ちゃん。ぼーっとしちまって」
はっと我に返ると、馴染みの商人がからからと笑っていた。
慌てて取り繕って笑う。
「いえ、何でもないのよ、ご店主様。少し疲れているだけ」
「そうかい、ならいいが…この暑さだ。荷物は俺っちが運んでいくから千鶴ちゃんはまけた分で甘酒でも買ってゆっくり帰って行ってくれ。日が落ちる前に。近頃賊が出るっていうものだからおっかない。でもまあまだ日も高いし、そう急ぎの用事もないんだろう?」
「今のところはございません。でも皆さま、あたくしのことを待っているでしょうから、早めに帰ろうと思いますの。賊に襲われても渡せる金子などたかが知れていますわ」
「お、さすがは看板娘。心意気がいいねえ。金子がなくてもまだ若い娘っ子だ、どんな目に遭うかもしれない。かなり手荒な連中らしい、命も取られるかもしれない。気を付けておくれな」
「ええ、あたくしは店の顔でございますから。…人は恐ろしいですわね。あまり人気のないところには寄らずに帰るつもりでございます」
頬を緩める。千鶴はまだ年若い少女だ。黒くて綺麗な髪と目を持っており、細くて儚い姿はつい手を差し伸べてしまいたくなる。寺子屋で文字を教わりつつ、空いた時間は全て家業の手伝いに回している。
「それにしても災難だったねえ、藩が貧乏になっちまって親ともども下町暮らしになっちまうなんてな」
「そんなに悪いことばかりでもございませんのよ、あたくし、今の自由な生活にとても満足しているのですわ」
「ま、あのままお城にいたって下女がいいところだったろうな。血はどうしようもないものさ」
「そうですわね」
千鶴の父は浪人であった。たまたま野盗から救った相手がこの藩の領主であり、その礼として家族揃って何年か前まで藩で雇われていたが、最近の年貢の引き上げや旱魃(かんばつ)で藩の財政が悪化、仕様がないということで、いくらかの小判と領主の謝罪と共に下町へ下りてきたのだった。父は道場の傍ら、母と茶屋を開いている。
あんまり手を抜いてっと舌を引っこ抜くからね、と店主の奥様が顔を出す。店主は困った困ったと笑いながら、また今度なあ千鶴ちゃん、と言って奥さんに場所を譲った。
「ごめんなさいねえ、あの人ったらお喋りで迷惑をかけて。ほらお行きなさい」
「こちらこそごめんなさい、長々と。またお世話になります」
待っているわ、と奥さんが微笑む、千鶴はぺこりと礼をして商店を出た。
城下なので人がとても多い。初めて千鶴が一人で買い物に出たときはあまりの人の多さに目が回ってとても時間がかかってしまったのを思い出す。
今年も熱い。勧められた通り甘酒を買って飲んでから茶屋に帰った。
「ただいま戻りました、母様」
「あら、ちょうどいいところに娘が」
この時間には珍しく茶屋は空いており、ひとりの青年が千鶴の母と話していた。人は足りているのにどうして自分が呼ばれたのだろうという気持ちがつい表情に出てしまいそうになって意識して口を微笑みの形にする。彼が振り向いた。
「あ」
千鶴と彼の声が被る。青年は立って千鶴の方へ一歩寄った。
千鶴は混乱していた。どうして彼がここにいるのだろう、もう会うこともないだろうと思っていたのに。
「わしを覚えておるか?」
黙った千鶴を見て青年はポリポリと頭を掻いていた。
「忘れることがありますでしょうか。寿彦様。あなたのように貴(たっと)い人がなぜこのような城下へ…」
「お忍びというものだ。それにそう貴くはないさ。わしは次男坊だし、身軽なものだね。小さいころ遊んだことがあるだろう。ふと思い出して聞けば城下で茶屋を営んでいると。それならせっかくだ、見てこようと思ってわしがここに来たのさ。元気なようで結構結構」
そう寿彦は笑う。
寿彦は数年前まで世話になっていた主、つまりここ一帯の藩主の次男坊である。次男となると大抵は養子に行ったり出家したりすることが多い。それゆえ身軽なものだと本人は言ったが、この藩の長男は少し病弱なところがあるので、自然と寿彦本人にかけられる負担は大きいものだというのを想像することは難しくなかった。欠けてはならない人物だ。それなのに刀を帯刀しているだけで、あまり警護も付けずに下町へ下りてきているのは些か不安であった。
その不安が顔に出ていたのであろう、寿彦はおおらかに笑って、少し離れたところに腹心の家臣がいるから問題はない、と言う。
千鶴は少しの間、口に両手を添えて固まっていたが、ぱちりと瞬きをする。そこから時間が動き出したかのように、慌てて寿彦に座るように促した。
寿彦はどっしりと長椅子に座る。ほら千鶴も千鶴の母君もそう立っていないで座ると良い、そう言われたが、まさか上の身分の方相手にそうすることもできず、困っているうちに母親が一言寿彦に声をかけてお茶を注ぎに行ってしまった。逃げる方便を完全に失った千鶴は、かなり悩んでから隣に座った。
「不自由はしておらぬか」
「いいえ、あたくしは十分以上に幸せでございます」
「そうかい、それはよかった」
「寿彦様は…」
「わしも幸せじゃ。まあ、そうは言っても兄上の‘替え’だからな、気は緩められぬよ」
「それは、」
それは幸せというのだろうか、そう思った千鶴の心を見抜いたように、寿彦は笑っている。
「衣食住には困らぬ。したいことも大体はできる。これで不幸せなどと言ったら、あまりに贅沢者じゃ。ちと退屈ではあるがな」
「退屈だと仰られるなら千鶴とお話をいたしましょう。お店が混んでいなければいつでも大歓迎ですわ」
「それはまことか」
「勿論でございます」
千鶴が微笑むと、寿彦も笑いだす。
「まっこと千鶴には人を幸せにする不思議な力があるのう。もう十分だと思っていたのにまだ幸せになれるようじゃ」
「もったいなきお言葉ですわ」
「そう畏まらずに笑え笑え、馳走になったな。そろそろわしも帰らなければならん」
千鶴はそこに来て初めて母がお茶を持ってきてくれていたことに気が付き、銭を渡されて、お釣りを渡せないまま広い背中を見送った。
それからというもの、寿彦は数日に一度の頻度で千鶴の店を訪れた。忙しい時間を外して来るものなので、千鶴もよくよく寿彦と話ができ、はたから見るとまるで兄妹かのように見えた。
気づけば千鶴は寿彦に淡い恋心を抱くようになっていた。ふわふわとしたそれを抱いて眠るのは何とも心地の良いことであったが、身分違いの恋だ。叶わない。そう思うと胸がぎゅーっと苦しくなるのであった。

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