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MMT~お金とは何なのか?(後編)

    「MMT」では、そもそも「お金(貨幣)」の本質や役割が、今まで私たちの常識だった「お金そのものが持つ価値(商品貨幣論)」ではなく、「負債の証明(信用貨幣論)」にあると考え、これは「お金」が「金(ゴールド)」という価値のあるモノ(正貨)と交換出来ない「不換紙幣」というただの「紙切れ」になった今の現実には即しているという話を前回した。

   逆に、今までの「常識(主流派経済学の考え)」で言えば、「金」と交換出来るという価値の保証を失った以上、「お金(貨幣)」の価値を保証するのは紙幣(貨幣)を発行する日銀など中央銀行への信頼感しかないということになる。だから紙幣を刷り過ぎたり、国債を買い過ぎたりして、中央銀行の財務状況が悪化すると貨幣価値が毀損されたと考えるし、それがハイパーインフレに繋がる、と考えることになる。

  「MMT」では「お金(貨幣)」はそもそも中央銀行ではなく負債によって生まれるもの(貨幣供給内生説)と考えるし、その価値を保証しているのも中央銀行ではないと考えている。だから、政府が赤字国債を発行して、それを中央銀行が買うようなことも出来るし、それは貨幣価値が毀損されたことにもならず、ハイパーインフレに繋がることもない、と考えることになる。

   これが簡単に言えば「MMT」と、今までの私たちの「常識(主流派経済学)」との「お金(貨幣)」に関する考えの違いだし、この根本的な違いがあるからこそ、今までの「常識」から言えば「MMT」はとんでもない、という話になるのだろう。

  ここで、気づいた人もいるだろうが、今までの「常識」のように「お金(貨幣)」の価値を保証しているのが中央銀行への信頼感ではないとしたら、「MMT」で「お金(貨幣)」の価値を保証しているのは、一体何なのだ?という話になる。

  その答えが「税金」

   国や自治体は「徴税権」と呼ばれる権利を持っていて、私たち国民から様々な税金を徴収している。その時に使われるのが当然、一万円札や千円札などの「紙幣」だし、中央銀行が発行する「お金(貨幣)」なのだ。どうしても相続税などが払いきれないなど特別な場合には物納も可能ではあるが、基本的に税金は「お金(貨幣、紙幣)」でしか受け取って貰えない。

    つまり、ただの「紙切れ」に過ぎない紙幣にも、自分に課せられた税金を払う義務を解消してくれるという価値があることになる。それこそこの納税義務を果たさなければ財産没収は勿論、刑務所送りにもなる訳で、この納税に使えるという価値は「お金(貨幣、紙幣)」の価値を保証するものとしては十分と言えるだろう。

    これを「国定信用貨幣論」というのだが、今までの「常識」のように政府が中央銀行を使って価値を保証した上で「お金(貨幣、紙幣)」を発行するのではなく、政府が税金として徴収することで「お金」の価値を保証している、という、これもまた真逆の考え方と言っていいだろう。

   また、ここから導き出されるのは、政府が税金として徴収する以上の「お金(貨幣、紙幣)」を国債という負債をつくって流通させないと、国民や企業は「お金」不足に陥るということだし、政府が徴収するよりも多く「お金」を国債で発行する財政赤字は異常どころか経済としては正常な事態ということなのだ。

  さらに言えば、政府は「お金(貨幣、紙幣)」を国債でつくればいい訳で税金だけで財源を確保する必要はないということにもなる。また、増税も財源を確保するためではなくて、「お金」の流通量が増えすぎた時、つまり、インフレの時に国民や企業からお金を取り上げる為の行為としてこそ有効。無理な財政健全化は「お金」を市場から過剰に取り上げて景気を悪くするだけということになるのだ。

   こういうツイートを頂いたことがあるが、これが「MMT」の「お金(貨幣)」の基本的な考え方、「信用貨幣論」や「国定信用貨幣論」による考え方だし、だから財政赤字も問題ないし、赤字国債を発行してでも財政出動をして社会福祉や公的雇用で格差や貧困をなくし、国民の生活を豊かにして需要をつくって景気をよくしよう、という「反緊縮」の考えが生まれるのだ。

  このように山本太郎やオカシオコルテスが訴えるような「MMT」による「反緊縮」の考えは、そもそも「お金(貨幣)」そのものについての考えからして、今まで私たちが考えていた「常識(主流派経済学の考え)」とは真逆だし、だから左右を問わず、受け入れにくい部分があることは理解してほしい。

  ただ、ここで絶対に間違って欲しくないのは、真逆と言っても、例えば天動説と地動説のようにどちらかが真理で、どちらかが嘘という話ではない、ということだ。

    「経済学」はあくまでも人間の経済活動という現実の営みの中から何らかの法則性や理論を見つけ出して何かモデルを作り、そのモデルで未来を予測したり、より良い政策を考えていく学問。自然科学のように決して真理を探求している訳ではないし、それこそアダム・スミスからマルクス、ケインズ、フリードマンetc…彼らのどの考えが今もっともより良い経済状況を作り出し、多くの人々を幸せにするかだけのプラグマティズムとしての価値しか持っていない。

 また、例えばマルクスの経済理論が労働者の幸せにはなるとしても、当然、資本家の幸せにはならないように、経済の理論にはそもそも誰の為、何の為の理論やモデルなのかという根本的な差異があることも理解しておくべきだろう。

    フリードマンらの「マネタリズム」や「リフレ派」、そして「アベノミクス」などの新自由主義的な経済金融政策、今や主流派経済学とまで呼ばれる金融と経済の理論やモデルが金持ちの利益だけを考えて、格差と貧困を拡大させ、結果、デフレスパイラルなどここまでの惨状を招いたことを考えれば、それを正していく理論やモデルは別のところにしかないと考えるのが当たり前だと私は思うのだが……。

                                                                               ※Photo by Pixabay



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