見出し画像

梨園、歌舞伎界の常識って?

花粉症がようやく落ち着いてきて、かつ、ロシア語のテキストだけじゃなく、また小説が読みたくなってきました。

手嶋龍一さん 
 ウルトラ・ダラー
笠井潔さん
 哲学者の密室
です。

今週は頑張りましたね。
ちょっとスピードを落として、のんびり続けようと思います。

息子もバッチリ頑張っていて、あまりにカワイイお昼寝顔と、あと、額に汗をかいていて、暖かくなってきたんだなと、思わず写真を撮ったのですが、そのまま載せるわけにはいかず、なんかイタズラしたみたいになりました。


理経だから大学では研究室にいたので人当たり悪いですってのが、下手な言い訳どころか、もはや、言い訳にならないくらいの人見知りです。


と、いうか、何を話したら良いのかわからないんですよ。small talkができないっていう。けど、簡単にcannotて言うのは、きっと、本当にニガテなのがすごく苦労して、すごいっていわれるほどになった人からしたら、失礼なことだから。


母親もね、「掃除が苦手」で済ましていました。それも掃除が苦手というより、興味が無いんです。掃除に。ただ買い物はわりと好きで、趣味もあるし、あと捨てられない。なんでも何かに使えるかも?綺麗にして寄付しよう!で、置いておく。それは良いんですけど、結局根本的に「自分のキャパシティをはるかに越えたモノを持ってる」っていうのを、散らかる原因として把握できない人なんです。

別に一人暮らしのぶんには構わないけど、一緒に暮らしてると、これ、けっこう大変なんです。

まず、タオルを新しくしない。

まだ使える。

お歳暮とかでもらったタオルを置いておく。

一緒に片付けの時間を設けても、母に聞くと全部取っておく、だから片づかない。収納はパンパンで余裕がない。

なんだかこんなところまで母を責めて要るようで申し訳ないのですけど、母が「そう」なのは別に構わないんです。

母が毒親になるのは、自分がそうである、じゃあ他人はどうか?ってなったとき、他人を受け入れる器量が無いからです。

モノを捨てたり、または趣味が無い人・部屋が散らからない人を、なんかこう、愛が無い人とか、果ては少しの会話で母がちょっと引っかかると、いつの間にか「人間としての欠陥品」まで発展していたりする。


まあ、そういう母親の元で育てられると、ある程度私が思い込み激しくなるのは仕方ないと思うのですが(ちゃっかり人のせい)

ただ、まあ仕事をしていて、苦労しています。苦労するから、当然、なんとかしようって思うんです。

で、ちょっと有意義な話ね。さるメガバンクの人材育成セミナーで聞いた話。


ご存知なかった方は、ご一読してもらって損はないはず。


営業さんの、トーク術に関するセミナーだったんですが、人と話すときの距離感と位置についてです。


まず

 密接距離 45cm以内、

 これはお仕事の関係ではなかなかないですね、特にコロナが流行しているし、離れて当たり前。

 固体距離45cm~1.2m

 モノを持っての営業なら、これくらいが普通な気がする。

 からの、

社会距離1.2m~3.6m

 公衆距離 3.6m以上

だそうです。

まず社会距離から入り、固体距離(片腕一本分)に縮める。


つぎに、角度。

 正対は「理の空間」→

 よく、正対は圧迫感があると言いますね。角度をかんがえると、面接はすべて圧迫面接と言えるかも。意味は、金品の授受、契約、謝罪。

 斜め前は「情の空間」→右前:親交 左前:親密

 これですね。斜め推奨されます。目も、まっすぐに見つめるよりは、マイルドで良いのでしょう。

 後ろは「恐怖」(ゴルゴ13みたいな)

 横は「なれなれしい」


 但し、現物を介してなら横は親交となる。


ーーー以上です。

もちろん、セミナー内容はこれだけでないですけど、日常生活でも使えそうなので、覚えておきました。



さて本題、というか、単なる、徒然なる、意見ですけど。




市川海老蔵さんの亡き奥様、小林麻央さんの姉・小林麻耶さんが、海老蔵さんとの金銭トラブルや「襲われかかった」ことなど、いろいろブログで暴露し、一部芸能週刊誌で話題になっていましたね。


何度かnoteで取り上げています。



以前、私自身は心情的に小林麻耶さん寄りであると書きましたが、亡くなった方が憑依したと言い、そのことばに説得力をもたせようというやり方が、ご多分に漏れず受け入れられません。 
怒りは沸かないけど、この人、大丈夫かな?と思ってしまいます。大丈夫なんですかね。やっぱり、海老蔵さんでなくても、病院行こうよ!ってなっちゃうと思う。


今回書きたいのはそういう話ではなく、この件に出ている一つの意見。
市川海老蔵さんが、女遊び激しいのは、分かっていたことじゃない?梨園て、そういうところじゃない?わざわざ口を極めて非難することじゃ、ないじゃない?
という意見への、私なりの反対意見です。
というのは、昔、文芸の世界には、ある逸話?格言?がありました。
誰が言い始めた知らないのですけど、
それは「小説家は私生活を出さないほうが良い」その心は、私生活で嫌われると、本が売れなくなるから、だそうです。
スキャンダルがあっても、「芸があるんだから良いじゃないか」「われわれ視聴者、読者は、暖かく見守ってやろうじゃないか」
古参のファンや、評論家なみの知識を持っていたり、スポンサーである、並のファンより、自分は「推し」に近い・推しを支えている、ということに誇りを感じている人ほど、こういった意見に流れる傾向があると思いますが、小説家になることにこだわっていて、誰かのファンになることを頑張ってこなかった私は、これに賛成では無いのです。
もう一つの例を挙げると、You Tubeでアップしている、落語の出囃子です。

それが何か?というと、
出囃子は、長唄、歌舞伎、お能などなど、様々な日本芸能の一部を「落語出囃子風」にアレンジされた曲であり、その数半端なく、今も増え続けています。そして、昭和初期、落語興隆期のメジャーな曲でも、ほとんど楽譜は整っていません。
落語研究会では耳コピーするよう指導されるようです。
30歳から三味線を習い始めた私は、先生と学生さんが整えてくれた出囃子の楽譜をコピーしていますけど。

何が言いたいかというと、「この文化はこういうものだ」という形式に固執していると、文化は衰退し消滅しうるという話です。 
そういう意味で、歌舞伎って古いです。芸が古くて面白くないとか、そういうことじゃなくて、未だにまあまあ血統重視のところが。趣は感じるし、歴史も追いやすいけど、上手い人がたくさんいる中、切磋琢磨するわけじゃないのだから、競争意識は高くなく、自分は特別だって思う人も多いんだろうな・・・と。
一般庶民の私は、片岡愛之助さんとか香川照之さんへの好感度が高いんです。市川海老蔵さんとの明確な違いって、人格とか歌舞伎への愛みたいな曖昧なものではなく、産まれてからずっと歌舞伎界にいたかどうか?ってところだと思います。
「歌舞伎界の常識」がどうであれ、見る側は本来それを忖度する必要は無いはずです。その上で、今日、どんな芸能界でもだんだん性的なスキャンダルには厳しい世の中になってきている。結婚しているかしていないかっていうよりも、「お付き合いしている相手を虐げる」こういう事に対して、モノの見方が厳しくなっていると思うんです。
こういう話になると、婚外恋愛に厳しいのは日本だけだ、とか、アメリカでは〜というお話になったりしますけど、日本には日本の文化があり、日本人女性が、自分自身の感覚に誇りを持っちゃいけない、なんておかしいですよね。その上で、古今東西、世界中で、嬉々として「二番手」を受け入れる女性はいません。
一夫多妻制(だった)国でも、男性が好き勝手しているわけではなくて、「女性は守らなくてはいけない弱い存在」だから、甲斐性ある男性はたくさんの女性を囲う、のであり、女性が孤独を感じないよう、通い方にもルールがあるようです。
「他国の文化」「自分とは違う世界」これは、どうしても自分の都合の良い側面に目を向けてしまうこともあり、(※逆に都合の悪いことにしか目を向けられない人もあります)それを「隣の芝生は青く見える」などといいますけど、結局人生って他人のとはキッチリ比較見当なんてできません。
で、あるがゆえに、大事なのは、一個です。結婚とか恋愛、友人関係、ありとあらゆる人間関係がそうです。「人と共に過ごす」この選択をする場合、大事なのは「相手へのリスペクト」「いちばん大事な人の意志を尊重すること」であり、梨園の常識で、小林麻央さんが何か苦痛を感じていたのなら、それを強いた「梨園の常識」が、時代錯誤だということです。
女遊びは芸の肥やしということばもありますが、この格言を引き剥がして、単なる事実だけで見てしまうと、女遊びの激しさが歌舞伎役者として優れたるに比例しているか?って、
そんなことは無いわけですね。
ってなると、「女遊びは芸の肥やし」というのもまた、時代遅れの、単なる市川海老蔵さんに心情的に味方してしまっている人にとって、使い勝手のよいことば、でしか、ないということです。
結局何が言いたいかっていうと、市川海老蔵さんの素行が悪いのは、10年ほど前から有名なのに、そして、順当にいけば、国宝にも選ばれるのに、「これを期に歌舞伎界にも体制改革は必要ちゃうの?」っていう声が、意外に少ない。
歌舞伎に興味のない人のお金も、「無形文化財保護」の名目で、市川海老蔵さんにいくらか入っているのです。
私、バレエが、テレビやYou Tube、また、息子を生む前に舞台を見に行ったりもしていたのですが、バレエは日本では文化財じゃないんで、税金じゃなくてひとえにバレエを愛するバレエダンサーの頑張りで興隆しているんですね。
努力も比べられないので、ただの好き嫌いの話なんですけど、冒頭の「小説家は私生活で嫌われると本が売れなくなる」という話も相俟って、歌舞伎のことよく知らないけど、市川海老蔵さんの女クセの悪さだけは聞こえてくるから、歌舞伎のイメージがなんか、悪くなる。
これは偏見なんですよ。けど、少なからずの人に当てはまるであろう「当たり前」の話なんです。そこを梨園の人たちが、歌舞伎はそういうものっていうのは、ちょっと胡座かきすぎですよね。遠い未来に歌舞伎が潰えたとして、その源流に市川海老蔵さんがいた、と悪評が立つ。
あり得るんです。なぜなら、歌舞伎界をのぞく他の芸能界で、スキャンダルに厳しくなっているのだから、いつまでも梨園が特別だとされる、文化認識かどうかは分からない。無形文化財であることが重要なようなに、それは市民の意見ではなく、太いスポンサーがいるかどうか?ですけど、「太いスポンサー」が梨園はそういうものと思っても、子孫が反発するかも知れないわけですね。
市川海老蔵さんがそういうことを考えていて、勸玄くんだけじゃなく、血統があるから無形文化財だから、じゃなく、未来永劫市川家を続けたいと、主体的に思っていたら、「歌舞伎が大事」「多くの人に歌舞伎を知ってもらいたい」と思っていたら、「どういうふうに女性関係を築くか?」ということです。
まこと芸の肥やしというのは、「芸」を中心の考え方をしている人に言えることですよね。真実がどうであれ、市川海老蔵さんが人格的に疑われていたら、「芸の肥やし?何いってんだ?なんで他の世界では干されるようなことして、アイツはお咎めなしなんだ?不公平だろ?」
無茶が通れば道理が引っ込む「梨園の常識」はもはや梨園の常識でなくなる、ということもある。ただ単に常識だったというだけの話。


また、最後に「二股、多股、婚外恋愛にシビアな考え方」のひとつを示します。
まず、文明が円熟すると、人間の衛生管理レベルが高まります。求める綺麗さが上がる、潔癖症がスタンダードになる、そういう傾向がある、ということです。
一概には言えないし差別にも聞こえるかもしれませんが、一夫多妻制→発展国。一夫一妻制→先進国 の、イメージがあるはずです。今のコロナ禍の状況、それ以前に言われている若者の恋愛離れからも分かる通り、恋愛と人が感じる不潔さ、分かりやすいことばで「生理的嫌悪感」には、密接な関係があります。
ちょっと話を変えてしまいますけど、キレイになりたい!カッコよくなりたい!それって「本能」と思いますか?
ある程度は本能のような気がするのです。でも、私は最近そうでもないのかな、と体感で思っています。美意識が「異性へのアピール」につながるなら、じゃあセックスのために人はキレイになるのか・・・?まあ違う!と言いきれもしなくとも、それだけと言われると、不快ですね。
思うにお化粧やオシャレなど、「もともと」は、「清潔でいたい」っていう衛生管観から発展していると思うのですね。なぜならどんなに美形でも、清潔感が皆無の人とは一緒にいたいと思わない、清潔感が発展(?)して、広い意味での「美意識」美、に、なっていく、と思うのです。
つまり「キレイになりたい気持ち」って、高まっていくほど、異性をゲット!が到達点ではなく、セックス・性行に対するハードルの高さ、敬遠する気持ちは、高まっていると思うのです。
これって考えると不思議なんですけど。生き物としての本能が同じだけど、人間の社会への順応のため、到達点では違っていくっていう。
文明が一夫多妻制から一夫一妻制へのシフトしていくのも、いろいろ他にも要因はあると思うけど、一つには、「パートナーが自分以外の誰かと性行をすることを不潔に感じる」という気持ちがあるということ。一回くらいの浮気くらい許してあげなさいよ〜梨園の妻なんだから分かってた事でしょ〜様々な慣習があり、頭では分かっていても受け入れられない、とか、浮気とか気の多いこと、それそのものが白い目で見られやすくなったのは、女性の地位向上とは違うのか、あるいなそれに伴って、生理的嫌悪感を我慢する必要がなくなっているんだと思います。
性行が不潔なイメージっていうのも、またことばにすると、「そうではない」と言いたくなるもので、こと恋愛になると、これでもかというほど「純」を強調するストーリーが増えます。実はこれ、明らかに「不潔なイメージを持たれないようにするため、汎用を越えて普遍とも言える基本的な叙述トリック」なんですね。
究極なのが、処女懐胎です。
直木賞候補の「ツ・イ・ラ・ク」では、「清潔感のある色気ってなんだ?矛盾してるだろ」と、姫野カオルコさんが、シットリした恋愛を、切れ味鋭い語り口で書いていましたが、確かにそもそも性行へのイメージと「清潔感」は、本来対極に位置するもので、つまり文明が円熟すると、セクシーな人間よりも「中性的な人間」が、より芸能の世界で需要高まっていくだろうっていう予測が立つ。
それに、スケール小さくして夫婦の問題で、不倫とか浮気っていうのが、まるで性格破綻者であるかのように糾弾されることがあるっていうのは、これは道理に基づいたことではなく、衛生観念が高まるにつれて、「生理的嫌悪感」も高まっているからだと思うんですね。
理知的な反応だと言ってるんじゃないです。感情的な反応ですよ。けれど、そもそも生殖に関係しないセックスを求めるのは、その衝動が大きい人ほど、原始的で洗練されていないと、理屈ではそういうことになりますし、理論よりも感情のパワーが大きいからこそ、「性的な関係がこじれているのは良くない」その社会的な流れに著名人が逆らうこと、良いことではないと思います。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?