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推しを推すということ。【『推し、燃ゆ』宇佐見りん】

第164回芥川賞を受賞した『推し、燃ゆ』は宇佐見りん(敬称略)の二本目の作品だった。受賞時、彼女は21歳で、現在大学在学中。なんと歴代3番目という驚異の若さで受賞に至った。

『推し、燃ゆ』あらすじ

「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」

この一言で始まるこの小説は、あるアイドル真幸(マサキ)の熱狂的ファンであるアカリが、推しを推すことに命を懸けながら自らを消耗し、燃え尽きるように推し続ける話。


現代的コミュニケーションの表現

現代のデジタル化に伴うコミュニケーションの複雑さが、アイドルに対する世間の見方や意見がインターネット上で飛び交う様子やライブチャットの荒れたコメント欄という現代的なフィールドで見事に描かれている。

〈病めるときも健やかなるときも推しを推す〉と書き込んだ。電車が停まり、蝉の声がふくらむ。送信する。隣からいいねが飛んでくる。(本文より)

こういった表現により、現実での対面的な関係性とネット上の多元的関係性の共生が上手く表現されている。

真幸のライブチャットのコメント欄が、応援コメントやアンチコメントなど様々な世間の声が流れていく様子はリアルそのものだった。


恐ろしいほど共感する

自分より夢中になれる「推し」がいるなら、アカリに共感できるかもしれないし、もしかしたら共感できないかもしれない。

共感できる人の中でも、アカリに自分を見ているような恐ろしさを感じる場合もあれば、アカリの行動が当たり前すぎてつまらないと感じてしまう場合もあるだろう。

共感できないならとことん出来ない。自分の人生よりも推しを優先する様は、もはや滑稽に映るかもしれない。


推しを「解釈」すること

彼女は自分のことを周りに理解してもらえず、また周りのことも理解しようとしない。自分自身すらに対してもどこか他人行儀である。

そんな彼女だが、推しのことになると全身全霊をかけて向き合おうとする。

推しの姿かたち、声、つっけんどんな性格、時折はにかんだりこらえるように笑う様子、、、

それらすべてが愛おしく、すべてを理解し受け入れたいと思っている。


また、彼女は推しを理解しようとすることを、「解釈」と捉えていた。

あの発言にどんな意図があるのか。

なぜファンを殴ってしまったのか。

ファンとしてあるべき姿はなにか。

決して触れ合いたいとか、あわよくば彼女になりたいとか、そういった願望は少なく、芸能界で本当に理解してくれる人のいない推しに対して、自分だけは唯一の理解者であろうとしていた。

気付けば、推しと同じ空間に居たい、同じ時間に食事を摂りたい、彼と同じようにコーラをラベル下まで飲みたい、このように、アカリは彼を解釈しようとした挙句、彼と同化したいと考えていたのではないか。
また、彼を推すことで自分自身を理解・解釈しようとしていたのではないか。


なぜファンを殴ったのか。

この疑問と何度も向き合い続けるアカリだが、推しと同化しようとしたアカリの中にはすでにこの疑問の答えというか、解釈は定まっていたように思う。

徐々にアカリが見せるようになった「推しが好きだからお金をつかう」「悲しいから泣く」といった” 感情が簡略化 ”されたアカリの中に、答えはあったのかもしれない。


決して、推しに人生を狂わされたのではない。

アカリは推しを推し続けたせいで自らを消耗し自分の人生を蔑ろにした結果、人生が狂ってしまった。

そう捉える読者は多かったのではないかと思う。

しかし、私にはどうもアカリは推しを推すことで平常を保っていたように思えて仕方がないのだ。

推しはアカリの人生同然である。

だからこそ、推しが芸能界で死ぬときアカリもおなじく人生で死ぬような体験をしたのだともいえるのだが、、。

アカリは推しを推すことを以て、ようやく生きていたともいえる。

彼女にとって推しにお金を費やすことは断じて浪費ではないし、推しを推さない自分それすなわち ”死”を意味する。


「推しは命にかかわるからね。」

まさにこのセリフを体言したような作品だった。

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