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【短編】『すぎし行く日々』

すぎし行く日々


 草木の匂いが強く感じられる頃であった。私は森を抜けて湖の方へと歩き出していた。そこにはたくさんの思い出がまだ微かに輝きを保っていたが、徐々にその光を失っていく日々に、私はふと切なさを感じながらも毎日のように水汲みをしに出かけた。持っていったタンクに水をめいっぱい注ぎ込んでから一休みがてら、ほとりに腰を下ろし両手で水を掬いとると、その表面に漂う光の波に目を奪われた。それを見ていると、まるでこれまでこの村に住んできた人々の記憶のかけらを掬い取ったように感じられたのだ。私はその水にありがたみを感じながら、一気に喉の奥を潤した。片手で持ってきたタンクを今度は両手で抱え、すでに体に染み付いていた小屋までの道のりを辿りながら思った。ここ数年で何もかも変わってしまった。活気あった村もすでにもぬけの殻。皆はどこへ行ってしまったのだろうか。

 小屋へ着くと、タンクを下ろして食事の支度をした。母さん、父さん、ミゲル、ダビ、モニ、皆が食卓に揃ってから、父さんがさあ食べようかと言うと、皆は食べ始めた。私もすかさず残り少ないパンを食べるのに無心になった。スープを口に含んで火傷をするミゲル。パンのかけらを落とし机の下でこっそりと食べるダビ。母さんにスプーンで食べ物を口に運んでもらうモニ。その光景を見ながら黙々と食事をする父さん。皆和気藹々としていた。食べ終わってしまうと、いつものように食卓には静けさが残った。

 私の孤独をいつも埋めてくれていたのは、野生の動物たちであった。今日はキツネがいつもより早く小屋に現れると、餌欲しさにフォンフォンと鳴いた。私は鍋に残ったスープを皿に注いでドアのそばに置くと、キツネは何の礼もなくひたすらスープを頬張り続けた。すると急に気が変わったのか、遠くへ走って行ってしまった。家の中が騒がしいかと思うと、今度はタヌキがキッチンに現れ、食器から食器へと飛び移っては何かを探していた。私には見られているとわかっていても、いつもの癖でこっそりと棚を開け、ジャム缶を取り出しては器用に蓋を開けた。小さな指に苺ジャムをつけ、ペロリと舐めるのだ。タヌキは感心して、再び指を舐める。私はいつも、トーストした食パンにヨーグルトを乗せて、最後に甘味を足すために苺ジャムをかけていた。タヌキは満足すると、蓋を開けたまま食器をつたって床に着地し、私の股を通り抜けて家を出て行ってしまった。私は、食器を片付けていなかったことに気づき、今朝汲んできた水をシンクに貯め、洗剤を流し込んでいっぺんに洗い始めた。たちまち「パチンッ」と泡が天井に当たって弾けた音がキッチンに響き渡った。気づくとそこら中泡だらけで、まるで大破した多くの海賊船が雲海を彷徨っているように放り出された食器類が泡から顔を覗かせていた。泡をドアの外へと寄せて足場を作っていると、クスンと何者かがくしゃみをした。すぐに後ろを振り返ると、猫が棒立ちをして鼻を右手で掻いていた。そして、右手を少し下ろして今度は舌で舐め始めた。次は猫かと思いながらも与える餌がもうないので、仕方なく翌日の食事を作り置きすることにした。泡はすでにシンクを流れ、ドアの外で溶けつつあった。私は慣れた手つきで調味料を取り出し、再び鍋でスープを作った。気づくと、猫はキッチンに飛び上がり珍しそうに鍋の中を除いていた。君の大好物ですよと言うと、私を見つめて、ンニャララと喜びの声をあげた。しばらく、スープを煮込んでいると、猫は我慢しきれなくなったのか突然鍋の中に手を入れたかと思うと、びくりとして外へと逃げて行ってしまった。

 私は再び一人になった。急に風が強くなり、ガタガタと窓を打ち付けた。外へと出て行った皆のことが心配になった。私は窓を閉めカーテンを閉じた後、マッチを擦って明かりを灯した。ランタンが小屋全体を黄色く照らした。腰を下ろしてランタン見つめていると、ガラスの中から溢れ出る光が微かに揺れ動き、あなたはえらいわねと勇気づけてくれた。すると不意に、昔湖で遊んでいた時に、母親が大切にしていたハンカチを失くしてしまった日のことを思い出した。そして、あのハンカチは今どこにあるのだろうか、誰かが拾って使ってくれているといいなと思った。

 外は風が止んだのか、静かであった。何も考えずぼーっとしていると少し寒さを感じ、座布団代わりにしていた毛布を手に取って体を覆った。しばらくの間寒さを凌いでいると、外からキーキチキチという鳴き声が聞こえてきた。私はふと、季節が変わったのだと思った。


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