禍ジナリア 恐怖のツボについて

※これはnote用の企画として、「禍話」語り担当の中年男性かぁなっきと、怪談手帖シリーズの執筆者である余寒によるメールのやり取りから切り抜いて若干読みやすいように修正した断片です。題名はポーの「覚書(マルジナリア)」を捩りました。

1 (余寒より)

 先日の配信、「舞と神棚」での、地下道で目撃されるダンス・グループについての「逆再生みたいな~」という表現、何という事もない、ほんのちょっとした表現なのですが、ありふれたパフォーマンスをする一団の姿がこの表現で一気に怪異として加速するというか、個々の人間からまるで一団で一つの存在であるかのような、「妖怪」的存在へとスムーズに変貌し、しかもその効果が、明日以降、現実に目にするであろう、地下道や往来のダンス集団にまで波及してゆくようにも感じました。

 多くの筆を費やさずとも、ちょっとした一節で恐怖の輪郭がぐっとはっきりし、怖くなる。上記したのは、あくまで私が先日そういう風に感じた一例なのですが、禍話で今まで語られた怪談でも、他の方の語られた怪談でも、或いは怪奇小説などでも、「ツボとなる表現」の例(こういうの怖いよね!効果的だよね!というような)があったら、伺ってみたいです。

2 (かぁなっき) 

 逆再生という表現は俺が発明・発見したものではないから何とも恥ずかしいのですが。部屋を漁っていたら、小中千昭さんが監修したイベントをDVD化した『ファンタズマゴリア』という作品(参加者が"発掘"した忌まわしいフィルムをみんなで見るという酔狂かつ豪快な実験作)に取り敢えず在りました。っていうか、仕掛けに気づいて貰えなかった参加者が自分から言っちゃうんですけどね(笑)。あと『封印映像』の初期作品に逆再生を用いた呪いの映像ネタがあったと思います。怪談実話にも幾つかあったような……朧気ですが。ただ、集団でそういった動きをやってるという話は、禍話が初めてかもしれない。多分。きっと。おそらく。だといいなあ。
 

で、お尋ねの話なのですが、小中千昭さんが著書『恐怖の作法』で視覚的にグッとくる要素、要はツボとなる表現を「イコン」と表現していて、要は子供の落書きとか髪の毛とか、そういったものを活用しない手はない、と仰ってるのですが、これって結局は、みんながやり出したらベタになっちゃうよね、組み替えたりアレンジしないとねって事になると思うんです。
例えば『呪怨』で最初に白塗りの子供が出てきたときは(正確には初お披露目の『学校の怪談G』のショートホラーパート)オッと思ったけど、そのあと何度も何度も出て来られると、まだやってんのかお前、みたいになるじゃないですか(笑)。ただ、そのあと『恐怖ノ白魔人』っていう映画があって、これは海外の映画なんですけど、白塗りで普通の身長した奴が次々と子供を殺していくという話で俺は予告編しか見ていないんですけど「あ、デカいと白塗りでも怖いな」と思いました。こんな感じで、何かしらアレンジしていくことは絶対に必要だと思うんですよね。

肝心のツボとなる表現についてですが、これって表現する人間が「絶対にこれは怖いぞ」と思っているか否かだと思うんです。例えば「リング」の脚本家、高橋洋さんって脚本を書くときに自分が本気で怖くないと書けない……みたいな事をよく仰っていますが、まさにそれ。自分の恐怖感に従って表現すれば、まあ、みんなに刺さらなくっても、伝わる人にはちゃんと伝わるとねというか(笑)。逆再生の話に関しても、あれは俺が本気で気持ち悪いなぁと思っているわけですから。それをただテクニックというか、ただ脅かすだけのショック場面を羅列して、終わり方はバッドエンドにすればいいでしょ?みたいな惰性でやっちゃうと、まぁお客さんは、条件反射で良いリアクションをしてくれるかもしれませんが、心の深い場所には残らないし、イラストにもならないし朗読もしてくれないわけです。多分。
この前、『処刑軍団ザップ』という、ものすごくしょうもない映画を見ました。マンソンファミリーみたいな集団が狂犬病にかかって、元々基地外なのにさらに酷くなるという酷い映画だったのですが、ただ、画面から妙な迫力は感じました。そのあと特典のコメンタリーを聞いてたら、出資者から今までにないホラー映画を撮れ!とメチャクチャな事を言われて困ってた監督が、ニュースで狂犬病に罹った人を見て、うわっなにこれ怖い!と脚本に組み込んで作ったんですって。なるほどなぁ、だから映画が変な緊張感に包まれてるんだな、と納得しましたね。
だから、怖いと思った要素を信じて逃げずに書くというのが創作実話問わず怪談には必要なんだと最近は思いますね。これは誰かとネタが被った時の言い訳とかじゃないですよ(笑)。

こういったヤバい要素の挿入のタイミングが神がかっているのは百鬼園先生ですね。あれは基本的に悪夢の世界じゃないかという人もいますが、それは何もわかっていない、ながら読み野郎の戯言で(笑)、実話だなんだと偉ぶっても究極は、一個人の主観に依存しているわけです。その主観の中に、如何にして、よからぬものが割り込むかというのが肝だと思うんですね。スタイルが合う・合わないは置いておいて、そういったリズムを学ぶという意味では内田先生の本を常に小脇に抱えるくらいの気持ちがないと創作・実話の境なく怪談を表現することは出来ないんじゃねぇの、と思ったりしています。

3 (余寒)

あ、逆再生という言葉の意味や既出なことについては私も知っておりまして……いわゆる逆再生動画というようなものを幾つか見たことがあり、その画面の異様さというか、醸し出される独特の雰囲気を知っていたため、「舞と神棚」における、表現としての嵌まり方がまさに私的に”ツボ”(聴いていて、あっこれイメージすると怖いな、と実感できるポイント)だったのです。単純なトリック表現というだけでなく、逆再生というものの持つどこか冒涜的な側面が、「あってはならないもの・こと」の表出の仕方・表現方法として、一つの適性を持っているのはすごくわかります。

最近読んだ、山尾悠子「黒金」という短編が、人獣の出現した部屋の光景を、時計の文字盤と共に結末から遡って描写していく、という形で書かれており、やはり頭に焼き付くような、異様な迫力がありました。もちろん、幻想小説なので怪談やホラーの「恐怖」とは論法がまた違いますし、「黒金」で描かれていたのはあくまで絵画的に凍結された一枚一枚の場面の遡及で、逆再生映像とは微妙に異なるのですけれども、どこか通ずる効果があるな…と。『ファンタスマゴリア』も『封印映像』もいずれ観てみたいです。

 そう言えば、小中千昭『ホラー映画の魅力』は、学生時代にかぁなっきさんに勧めて頂いたんですよね。映画をあまり観ないどころか、ホラーコンテンツのいわゆる名作にも新作にもほとんど触れてきていない私のようなタイプの者が読んでも、「恐怖」の表現や演出についてロジカルに綴られた記述の一つ一つがわかりやすく、目から鱗がボロボロ零れるような名著でした。増補・改訂された『恐怖の作法』も購入し、執筆作業において、個人的な二大教科書というか、理論的原典の片方になっています(もう一つは昔たまたま買っていた怪談之怪『怪談の学校』を引っ張り出して使っています)。
 「怖い話」を語る/書く時、まず何より語る/書く当人が本気で「怖い」と思っていなければ駄目だ……というお話は、自分でも幾らか書くようになって理解したというか、「こうすれば怖いだろう」と「こういうのが怖い!」の間には大きな隔たりがあるのですね。
他者の体験を怪談に書き起こす場合でも、単にそのまま右から左へ文字にして出すのではなく、一度「自分にとってはどこが/何が怖いのか」考えて咀嚼して、自分の「怖い」ポイントに絞って書き直さないと、怪異は死んでしまうのだということをしみじみ実感しています。
同時に、主観的な怖さを押し出すだけでなく、自分の抱いたその怖さを「聞き手が共有できる表現」として出力するところに、怪談を語る際の手腕が求められる、という、以前にかぁなっきさんが言われていたこともまた、痛感しております。(←かぁなっき注・え、俺、そんなこと言った?)

『怪談の学校』で、撮影現場に奇怪な女が出たという一つの怪談を例に、怪談塾の学生さんが記述した文章と、講師である「新耳袋」著者の中山市朗さんが語り直した文章を並べて比較する座談会があったのですが、起きていることも出現している怪異も本当に全く同じなのに、構成や順序、カメラの向け方・切り取り方で「怖さ」が段違いだったので、最初に読んだ時には驚愕しました。そこで中山さんが「こっちは何で怖くないのか」に加えて「そもそもこの話は何が怖い(と自分は感じた)のか」を明確に言語化することで、学生さんたちも「あ、そう言えばここが怖いな」と気づく流れになっており、大変面白かったです。
そう言えば学生時代、かぁなっきさんが、私の送った怪談に対し、ほんの幾つかの視点の切り替えや末尾の一文の補足などをアドバイスされ、それだけで恐怖度が急激に上がっていたことを今さら思い出しました。「犬」や「坊さん」、「赤い山」などは思い返せば、かぁなっきさんの指摘や語り直しで、書いた当人が「あ、この話、怖かったんだ…」「うわ、そこに気づくと怖い」等となったものでした。(←かぁなっき注・そうだっけ?)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?