禍ジナリア 『信号手』

※これはnote用の企画として、「禍話」語り担当の中年男性かぁなっきと、怪談手帖シリーズの執筆者である余寒によるメールのやり取りから切り抜いて若干読みやすいように修正した断片です。題名はポーの「覚書(マルジナリア)」を捩りました。

1 (余寒)
チャールズ・ディケンズ「信号手」を、かぁなっきさんが何度かオススメ作品に挙げていらして、深く納得しておりました。
私も大学時代に「怪奇小説傑作集」で読んだのですが、他の収録作が(もちろん小説作品としてはどれも素晴らしいのですが)、およそ怪談的な怖さには欠けるものが多い中で、「信号手」は現代の実話怪談と遜色のない恐怖というか、それらに通ずるタイプの恐怖を感じたため、印象的だったのです。 

以前、「死の予兆」ものの怪談はフィクション・ノンフィクション問わず難しい…という話題でかぁなっきさんが仰っていた、「これは死の予兆だな、と読者に気づかれたら終わり」「怪異そのものがあまりにも『死』を象徴していると良くないし、かといってあまりにインパクトが無いと『それが死の予兆かよ』と言われかねないしで、塩梅が難しい」という点を踏まえても、「信号手」は、それらを完璧にクリアしているように思います。

「怪奇小説傑作集」所収の作品ではもう一つ、L・P・ハートリイ「ポドロ島」も怖かった。「信号手」とは別タイプに感じますが、こちらは、因果や因縁をある程度匂わせつつも、凶行の痕跡を残し島の闇の中に見え隠れする、「肌の黒い、男の顔をした、四つん這いの何か」が、徹頭徹尾正体不明のまま終わることで、ごく短い文章の中に、何とも不気味な余韻を残していました。

因果や因縁をはっきりさせず暈す、もしくは思い切って全く切り捨ててしまう、という手法で言うと、岡本綺堂の紹介していた、中国の伝奇伝説や古典怪談のいくつかが、生々しい怖さを想起するのも、同じ理由かと思います(ほとんど因縁の説明がされず、異様なもの、不気味なものがいきなり現れて凶事を起こして消える)。
勿論、何もかもを暈せばいいというわけではなく、それはともすれば「ただ意味不明なだけ」の話に終わる危険性も大きいのだと理解してはいるのですが。

そういう、「実話怪談」的な怖さのポイントとは何かについてのかぁなっきさんのご意見を伺いたいです。

2 (かぁなっき)

『信号手』を再読していて、あっこれ、語り手の意図が不明だから余計に怖いんだ!ということに気が付きました。つまり、あの語り手って冒頭から普通に主人公やってますけど、何であの場所に居たのか全然説明されてないわけです。あれは、確か長編の中に差し込まれた短編か何かだったと思うので、そちらを通読すると最小限の説明はあるのかもしれませんが(違ったらすいません)。(←かぁなっき注・違いました。追記をご参照下さい)
ひょっとしたら、あの語り手、「起きるかもしれない事故を見ようとして観察していた奴」、つまりルヴェルとかサキの掌編に出てくるような愉快犯だったかもしれないですよね。これは怖いですよ。
昔、洋書で「ディケンズって基本、作品が視姦ベース」的な本が指導教授の部屋にあって、俺は門外漢だから詳しくは読まなかったんですが、なるほど、ディケンズのダークな短編を通読すると、ポーと通じるものがある(天邪鬼や告げ口心臓と同じような殺人犯自白ネタを同時期に書いてる)のも納得できるなあ、とか考えたことを思い出しました。
何処までディケンズが計算していたかは別として、語り手がそこにいる意味といった部分において、色々と想像できる余地・余白が設けられていることも信号手という短編を怖くしているんじゃないかと思いました。こればかりはキチンと研究しないと断定できないですけどね。切り取られて翻訳されたことによって生じたかもしれないので。それはそれで禍々しくていいですけれどね(笑)。

〇ここから追記

失礼します!先日「信号手」についてダラダラ書いた部分に事実誤認があったので訂正しときます。これは、もともと短編として掲載された作品でした。長編の一部分ではなかったわけです。
ただ岩波文庫のディケンズ短編集についてた解説によると、これ、ディケンズがすげぇ悲惨な列車事故に出くわして、それが結構ショックだったらしくて、その影響で書かれた作品みたいなんですよ。
さらに、ディケンズが亡くなった日ってなんと、その列車事故に出くわした日だったそうで、なんだか因果因縁ですよねぇ、こうなると。
つまり、ここでもこの前から言ってる例の説、つまり書き手がメッチャ怖がってることを書けば絶対読者に伝わる説が正しいと分かったわけです(笑)。

3 (余寒)

語り手の意図や背景が不明であること。ディケンズ作品の一部における「窃視者/告白者の文学」という切り口。
「信号手」の全体に感じていた奇妙な不安感や言い知れない据わりの悪さの正体について、いくらか腑に落ちた気が致します。
仮面の裏側に張り付いていたかもしれない、薄気味の悪い笑みの想像のみならず、もっと超自然的な――「私」が、まるでこの不気味な事件の一部始終を記し語るためだけに、寂しい断崖の陰から、もしくはぽっかりと口を開けたトンネルの底のない暗闇から湧いて出たかのような、そして物語の幕切れと共に、いつの間にかまた、ふっとその後ろ姿を溶かしてしまうような幻視をすらしてしまいました。

或いはこの切り口から、物語を記述する「語り手」そのものへの恐怖(窃視者、撮影者、口述者etc...)というのも面白いな、などと思ったりもした次第です。 

作中の怪異に「死神」だの「幽霊」だのと言った目鼻口を与えず、輪郭線すらないのっぺらぼう、不可解な現象の集合のままにしている上手さも含め、小泉八雲が「茶碗の中」で述べていた有名な言説、塔の階段の切れた先、「語られざること」の怖さを思い出しますし、仰る通り、「余白」や「途切れ」がいかに怪談の生命なす一角であるかを改めて考えさせられました。

補足でお送り頂いた、「信号手」の発端となった事件と、ディケンズ自身の奇妙な因縁というか恐怖関係も、何とも味わい深いです。死の一編が円環を描いたような錯覚を覚えます。

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