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なぜ後期研修を中断して健診医の道を選んだのか。

一般的な医師なキャリアと言えば
卒業→初期研修医→後期研修医→勤務医or開業
これが王道だろう。90%以上がこのパターンな気がする。
中には卒後すぐにアメリカに行ったり研究したり、医務官になったりといった色違いのコイキングみたいなレアキャリアを選ぶ人もいるが
まあ稀な気がする。

そして私も多分に漏れず初期研修終了後、そのままの流れで
後期研修医に移行した。
当初は外科に行こうと思っていたが、ワークライフの事を考え
総合内科研修へと進んだ。

後期研修は最低でも3年間ある。
そしてこの期間は結構しんどい。
医師のキャリアの中でも1、2を争うしんどさな気がする。
(といっても私はまだその先を見たことが無いが)
初期研修もたいがいキツかったが後期研修はそれ以上だった。
ブラックジャックによろしくに描かれるような超薄給で
超時間外労働させられるというものはなかったものの
連続30時間勤務くらいなら余裕で週1~2回あったし
大学病院から出される給料なぞ、マックのアルバイトの方が
稼げるんじゃね~??と言える代物だった。
(実際はアルバイトの収入もあるので額面はそれ以上になるが)

とはいえそれ自体はまあそんなもんである。
初期研修の時も似たようなもんだったし、その時期を乗り越えた身としては
まあけして不可能と言える環境ではない。
(この時点で大概おかしいとも思うが)

が、私の場合それ+αの状況があった。
子育て妻の病気である。

前者に関しては色々抱えている医者も多いと思う。
医者だけではない。様々な職種で共通する問題だろう。
当時私には2歳の娘がいたが、妻もフルタイムで働いていたため
当然保育園が必要になった。実家は遠く離れていたため自分たちで
乗り切る形になる。

さて、後期研修は殆どの環境でそうだと思うが
1ヵ所でやり続けるという事があまりない。
様々な経験を積む必要があるとして、複数の病院を半年単位で
転々とするのが常である。
結果元々は通勤に15分程度だったのが、
1時間以上かかるところに異動になったという事もザラである。
私単体なら何とかなるが、保育園はそうは行かない。
コロコロ変えようにも条件にあう所が見つかればいいが
途中から入ることもなかなか難しければ
医者の労働時間にあった環境を見つける事も中々難しい。

当時何とか見つけたのは延長含めて6時までの保育園だった。
まあそれ以上預かってくれる所など稀だろう。
病院から保育園までは最短で30分かかる。
従って17時半には病院を出る必要がある。が
通常その時間はまだ申し送りをやっているのが常だった。
自分の患者さんの事や新しい患者さんの事などをその日の当番
(夜の間の急変対応をする医者)に申し送るのである。
私は皆に頭を下げつつ先に終わらせて貰い保育園まで向かう日々だった。

世間ではワークライフバランスや働き方改革が叫ばれているが
私は当時どうにもやるせない思いを抱えていた。
私が先に帰る分その分のしわ寄せは確実に同期にいっているのである。
毎日申し訳ない思いを感じるし、同期とも素直に付き合えなくなっていた。
後ろめたさが故である。

もちろんできるだけ皆の負担にならない様
17時までに仕事を終わらせる様常に務めていた。
ただ、病気はいつどこで起こるかは読めない。
自分の患者が16時過ぎに急変した時
私は苦い思いを感じつつもその対応を同期に任せ
保育園に向かっていた。
これは子育てをしている医者なら当たり前の事かもしれない。
だがその時は独身の医者が羨ましく思えたし
子供の存在が重荷に感じる瞬間もあった。
そしてそんな風に考えてしまう自分が何より嫌になった。

そんな中転機となる出来事が起きる。
妻の自殺未遂と入院である。
後期研修の環境は私の心だけでなく
妻の心も確実に蝕んでいっていた。
夫婦の仲は日に日に劣悪になっていき
気付けば離婚の話をする日々だった。
必然と言うべき、別居の日がある日訪れた。
その話をしたその翌日だった。妻は薬物を大量服薬し
私自身が勤務している病院へと運ばれた。
体調自体は問題なかったが精神面がかなり摩耗しており
精神病院へ入院する事になった。

そしてその日々と姿を見て思った。
私は一体何をしているんだ、と。
その当時私がしていた全ての事が嫌だった。
精神科病院に入院したあと、妻は双極性障害の診断がついた。
後になってみれば合点がいく。
明らかに妻の様子は変だった。
突然衝動的に高い買い物をしたかと思えば、激しく抑うつになるサイクルを繰り返す状態が続いていた。
それは正に典型的な双極性障害の症状だった。
が、私は医師でありながら妻のその変化に気づくことができなかった。
慣れない環境、仕事、そういった事が影響しているのだろう
そう思っていた。だがそうではなかった。それは病気によるものだったのだ

あともう少しで大切な存在を失う寸前まで来たところで改めて私は思った。
一体自分は何の為にこの仕事をしているんだろう、と。
自分のキャリアの為にこれ以上家族を犠牲にはできないと思った。
葛藤はあったが、その選択が正しいという確信はあった。
私は後期研修開始半年後、研修を辞めた。

転職活動を平行して開始する事になったが
正直自分のスキルで雇ってくれるところなどあるのだろうか??という思いはあった。
というのも専門医もなく、ほぼ初期研修を終えたばかりの私は
到底医師として一人前とは言い難い。
一人で対応できない急変など山ほどあるし、手技もまだまだ不完全である。
市場において自分の持つ価値は殆どないと思っていた。

が、ありがたいことに初期研修を終えていれば
ある程度の求人が見つかるものである。
転職活動についてはエージェントを主体にお願いしていたが妻の事を考え
夜勤(当直)はできるだけなし、週3~4日程度の環境の
比較的落ち着いた病院での勤務という条件を出していた
にも関わらず、それでもいいといってくれる病院が
1カ月足らずで5か所くらい見つかった。
中には訪問診療クリニックの方から、半年間は研修の体でしっかり指導しますからどうですかという案件もあった。
本当にありがたいと思った。

その中のどこかで決めようと思っていたが、
転職活動が終盤に差し掛かる頃に
健診業務の常勤の求人があるんですが、という提案があった。
慢性期病院での勤務を、と考えていた私にとって全くそこは
想定していない角度からの求人だったが、
見た瞬間にここだ、と思えた。

慢性期病院であっても当たり前だが担当患者もいれば
外来で定期的に見る患者もいる。
当時の私にとってそれが最大の懸念点だった。
一度自分が受けもった患者がいれば中々休みを取る事は容易ではない。
少なくとも私自身は自分の責任からそれを人に任せたいとは思えないのである。
しかしながら妻の体調が変わったときには当然それを優先する必要が出る。
その時に自分の担当患者が居れば、その調整を、という形にはなるが
健診業務であれば基本一期一会であるので究極的には私でなくとも
誰か代わりの医師が居れば現場は問題なく回る。
その環境がとても魅力的に思えた。かつその求人を出してくれた健診機関は
私のそのような状況にもとても理解を示してくれる職場だった。
私はそこに転職する事を決めた。

間もなく今の職場に来てから1年になるが
本当に良い選択をしたと思っている。
もちろん色々思うところがない訳ではない。
転職エージェントからは私のキャリアの事を考えるとあまりお勧めはできませんが、、という話があった。勿論それは思った。
しょーじき今救急車の対応とか言われたらできない気がするのである。
もう久しくそういった事はやっていない。
一般的な外来業務はできるかもしれないが、
それもやがて風化していきそうである。
そういった最前線の現場から少しずつ離れていく事の懸念はある。
そしてそれは常に思う所である。

が、一方で日々の時間を家族と緩やかに過ごせる様になった事を思うと
これでよかったのだという確信を持つ。
死ぬ瞬間の5つの後悔という本があるがそこで挙げられる後悔が
もっと大切な人と時間を過ごせばよかった、
あんなに仕事に時間を使わなければよかった、というものである。

この本の中にも、そんな後悔のエピソードがある。
妻は夫の退職後、夫と旅行に行くのをとても楽しみにしていた。
しかし夫の方はあともう少しやることがあるからと退職を先延ばしにする。そうしてあと1年、あと1年と繰り返すウチに妻が体調を崩してしまう。
大した事じゃないから、と病院に行くが結果は末期がんだった。
そうして妻はとうとう夫と旅行に行くことなく亡くなってしまうのである。
その時の夫の言葉を原文から抜粋したい。
「私はあんなに働くんじゃなかったよ。なんて愚かなばか者だったんだ。私は働き過ぎたから、今こうして孤独に死んでいこうとしている。最悪なのは、引退してからずっと一人だったこと、そしてそんな思いをする必要は本当はなかったってことだ。私は仕事がとても好きだったよ、もちろん。それに地位もすごく気に入っていた。けれど、今となってはそれが何になる?私は人生で本当に自分を支えてくれたものに十分な時間を費やさなかった。マーガレットと家族、そう、大切なマーガレットに。妻はいつも愛し、支えてくれた。それなのに私は彼女のために家にいようとはしなかった・・」

それを思えばコレで良かったんだろうなと思う。
一回は手術は成功しました、とか言ってみたかったなあと思わんではないが
コレで良かったんだろうなと思っている。

さて、今後については色々考えている所である。
若いうちはまだいいが、年齢が行くと流石に健診だけのスキルしか
持っていませんというのはちと不安が残る。が
まあ健診自体も掘り下げていけば結構やりようがあるもので
ひとまずそれを極めていく方針でもいいのかなと思ったりする。
消化器がん総合認定医などは今いる施設でも取れそうな雰囲気なので
そこら辺を目指しつつ、研鑽を積んでいく方針である。

次回の記事では私自身の実際のスケジュール感や生活感を詳述していきたい
ちなみに産業医基礎講習会で私は一つの目標を自分に課していたのだが
結局それは達成できずじまいだった。
それは誰か一人ウチの職場に勧誘するというものである。

今現在ウチの施設は所長先生どのと私の常勤医2名体制なのだが
これがちと寂しい。
今の職場環境に全く不満はないのだが、唯一挙げられるのが
同年代の話し相手がいないというものである。
所長先生どのは定年ほどまではいかないと思うが私の一回り上の先生で
フレンズという感じの雰囲気ではないのであともう一人くらい
いないかなあと周りで勧誘中なのだが、やはりというべきか
中々若手のウチから健診メインというのはいない雰囲気ではある。
産業医講習会にくるような医者ならあるいは、と思っていたが
誰にも話しかけられなかったので、結局勧誘はいまだにできていない。
いつでも出せる様にポケットにしまっていた名刺と連絡先が
一度も使われない様はバレンタインデーの日の空っぽの靴箱が醸し出す哀愁さながらである。

という訳で本記事、そして次回の記事で、健診医かあ
それもアリかもなァと思った方がいればコメントをして頂けたら嬉しい。
私が今住んでいる場所が沖縄なので南の島でのんびり
という人にはうってつけの環境である。
という訳で改めて詳細は次回の記事でお伝えできればと思う。


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