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わたしが児童文学を愛するワケ #幸せをテーマに書いてみよう

かのC.S.Lは手紙でこう述べたそうな。
『妖精物語とは嘘である。ただし、銀色に光り輝く美しい嘘である。』と。

それに対し、トールキンは『妖精物語とは人間に与えられた準創造(つまり、キリスト教における神の模倣)であり、その結末はすべからく、イエス・キリストの復活に表されるように、完全なる幸福の大詰めを迎えるべきである。』という内容の返事をしました。とても意訳。(意訳の意味を履き違えているとも)

完全なる幸福の大詰め、つまり、トールキン自身によると、救済を含んだハッピーエンドです。これを彼が完全に体現したのが、『指輪物語』であり、『ホビットの冒険』。
痛みを伴う、しかしその痛みは、時間の経過やアマン(理想郷)への渡航により癒され、救済される物語です。

わたしはトールキン研究者のほんのはしくれであり、また、クリスチャンではないので、以上の解釈は間違っているかもしれないのですが、議論できるほど知識がないのが悔しいところ。この文も伝記とトールキンの本を隣に置いて書いています。

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以下、『きかせたがりやの魔女』、『めいとこねこバス』、『精霊の守人シリーズ』、『天空の城ラピュタ』の結末を含みます。
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それとは別に、昨今の完全無欠なハッピーエンドの形として、『きかせたがりやの魔女』、『めいとこねこバス』に見られるように、『また会えたね!』というものがあるように思われます。
わたしが『精霊の守人』をどうしても児童文学と考えられない一番のわけは、そこにあります。いつかいつか、バルサ、タンダとチャグムが再会できたらなあと思いつつ、別世界の住人として会えないという展開もすぐれていると思うのですから。

話はずれますし、書名も伏せますが、性愛を含むものを児童文学とはどうしても思えません。児童文学における子どもとは基本的に性別のないものであるべきだからです。
さらに話をずらすと、こう思うのは、ひと世代古い本棚で育った私が子どもだったころ、物語の主役たる『少年』になりたかったからかもしれません。(むかしの本の主人公は少年であることが圧倒的に多かったのです。)

話を元に戻しましょう。だからこそ、『天空の城ラピュタ』を見ると、私はとても切なくなってしまうのです。ああ主人公たちにとって、人生で一番の胸躍る冒険がこれで終わってしまったのだ、と。なぜこんなに悲劇的な見方をしてしまうのかは分かりませんが、ラピュタの結末は私にとって悲劇なのです。

まあそんなこんなで以上から、児童文学における幸福とは、普遍的な『救済』そして、現代の『再会』に至るまで、形を変えながら連綿と続いてきたのではないかと思います。そして生きることの幸福を描く媒体として、児童文学ほど特化したものは他に無いと。

クリスチャンにとって『銀色に輝く嘘』であり、『準創造』である『救済』、昨今見出したところによる『再会』による幸福。これらに触れるとき、わたしの魂は心から喜びに震え、無上の幸福にひたるのであります。

つたないながら、わたしの幸福論でございました。

このnoteはあきらとさんの企画に参加させていただいたものです。


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