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善意の当たり屋、もしくは玉ねぎの皮を剥くように

善意の当たり屋。


どこかでそう表現しているのを目にして、「なるほど」と膝を打った。
私-もしくは、私たち-はしばしば、“善意の当たり屋”に遭遇する。

彼らがどういう人たちかと云うと、
『相手が求めているか・いないかは別として、自己満足のために施しをおこなう』人たちのこと。だと、私個人は定義している。


これは大袈裟な例だけれど、サプライズ(まあフラッシュモブとかそういうのも含めて)、ああいうのは本来、相手の性質をかなり理解していないとできないことであって、時間・手間・人手・(お金)等々を費やして、結果的に被・サプライズ者が内心「うわー....」となってしまっても、サプライズする側は「さあ、驚きと喜びに満ちた表情をみせて!なんなら涙流して!」という期待まみれの顔を揃えて、相手の第一声(第一リアクション?)を待機するのである。

そうなるともう被・サプライズ者は、目の前で繰り広げられたことごとが自身にとっての幸福であろうとなかろうと、喜ぶ『ポーズ』をとるしかない。ここで素直に、「は?」と言えるひともいるにはいる...のだろう(そして私はそういう人に憧れる)が、果たして、そういう反応をする相手にサプライズする方も、余りに相手の性格を読み違えていると思うので、彼らの関係はそう長くは続かないだろうと思う。


また最近で云うと、某○○時間テレビのなかで、『医療従事者の方へ、感謝を込めた歌のプレゼント』と称して、アイドル・王と王子(英訳してね)の皆さんがパフォーマンスをしていたのを目にして、私は、はて?と思った。はて?


じぶんがなぜその時、はて?と思ったのか。その本質を探ってみると、以下のようになるわけです。

「それ、ほんまに医療従事者のひと、うれしいん?」と。

やっていること自体は、スタジオでアイドルが歌をうたっているという、普段の彼らのお仕事とはなんら変わらんことなのに、彼らがチャリティTシャツを身に纏って、『〜医療従事者の皆さんへ、フラワーソングメドレー〜』というテロップを出せば、それは途端に“アイドルのショー”から“医療従事者への感謝表明”と成るわけだ。それって、めっちゃ都合よくない?と私は首を傾げながら、彼らが歌う「世界に一つだけの花」を聴いていたわけです。

これで本当に喜ぶひとって、たぶん、王と王子ファンの方々と、「医療従事者の方へ、ありがとうって気持ち届けてる〜」って思いながら歌っている当の本人たちと、それを企画したひとたちくらいじゃないのか。ほんまに医療従事者のためを想うんやったら、じぶんらがコロナに感染して病院の負担を増やしてしまわないように、スタジオでもマスクつけたら?とか思ったり。私も私で詭弁論者というか、無茶苦茶やな。


確かに、“人のために”なにかを行なうというのは、心が豊かになるし多幸感に包まれる。
けれど、誰かになにか、優しさを手渡そうと思ったときに、「これって、本当に相手の為になるんやろか」と、一瞬立ち止まる癖をつける。これが案外、役に立つ。
“ありがとう”という言葉ほしさに相手の笑顔を強要しそうになっていたら、それは結局、相手のためではなく自分のため。『せっかく○○してあげたのに』という台詞が思わず口をついて出てしまう時などは、まさしく“善意の当たり屋”と成り果てた姿がそこに在るはずだ。


こういった惨劇を未然に防ぐために、私は最近、あることを意識している。

それは、「玉ねぎの皮を剥くように、素直で本質的なことばを選ぶこと」。


心理カウンセラーが講演のためにとある学校へ趣き、そこの生徒がお悩み相談をした際のやりとりが記事になっていたのを、以前読んだことがある。
相談者の女性は最初、恋人への文句を強い語気で発していたものの、カウンセラーのかたが「じゃあ、あなたはその時どうしてほしかったの?」「ほんとうは、どう思っているの?」と、ひとつひとつ、玉ねぎの皮を剥くように深く切り込んでいくと、最終的に女性は涙を流しながら、「ほんとうはただ、愛してると言ってほしかった」と打ち明けた、というような記事だった。


じぶんの心に嘘つかず素直であろうとすることは、武器を持たずに戦場へ向かうようなもの。そんなまるごしの生き方を選んだ時点で、じぶんが傷つくということは決まっている。
けれど、私はそのように生きてみたい、と思うのだ。


もしも自分が善意の当たり屋になってしまいそうな時は、「わたし、あなたに喜んでほしいんだけど、どうすればいい?」と尋ねたい。いつだって主体的に、じぶんの気持ちを、玉ねぎの芯を先手先手でつまびらかにしてしまいたい。
逆に、当たり屋に遭った際などは、「もっとこうしてくれた方がわたしは嬉しい」と伝えられる自分でいたい。それは何よりも、相手にわたしのことをできるだけ正しく知ってほしいから。


ひとは結局、「じぶん」を主体として生きるしか道はない。
ものごとを美しくしたい余り“他者”を主体にすることは、決して正しくないのだ。
いつだって我が儘に、玉ねぎの皮を剥きながら、「わたし」の心を「わたし」の言葉で伝えるしかない。それを互いに果たした者同士が、ほんとうの関係を築けていけるのだと、私はそう信じている。

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