【第1話】ココ・シャネルのセンスはどのように養われたのか
ご覧いただきありがとうございます。
しばらくはデザイナーシリーズを展開していきたいと思います。
初回はガブリエル・シャネルを取り上げます。この記事は第一話です。子供時代に焦点を当てています。
シャネルが語った幼少期のエピソードは、地名など一部矛盾があるようです。本当のことを語りたくなかったのかもしれません。それで、なるべくシャネルの言葉に沿った仕方で子供時代に触れました。
では、お付き合いいただけますと幸いです。
はじめに
「ココ・シャネル」の名前は、世界中で知られている。それにしても、この名前を最初に耳にしたのはいつだっただろう。これについては、読者のみなさまにも聞いてみたい。
私が子供の頃はインターネットが今ほど普及していなかった。父の仕事の関係で知らない都市に赴任することになった時には、ガイドブックに載った地図でブランドのブティックがある目抜き通りをチェックしたものだった。そうすると、街の中心部がわかり、都市の発展具合もなんとなく想像できて、ワクワクした。
その時にブランド名を知っていたということは、すでに幼少期にはシャネルの名前も認識していたことになる。
晒されたような白とオニキスブラック
シャネルのブティックは世界で310店舗ある。旗艦店では堂々たる美しいファサードを見ることができる。店舗の外観は、それぞれ個性がある。なのに、シャネルのエスプリが散りばめられていて面白い。
一つの要素は、ココ・シャネルらしい色調。
白、黒、ベージュを基調にした色だ。
シャネルのカラースキームは、常に一貫している。「晒されたような白とオニキス*ブラック」と評された白と黒。「他に引き取り手がいないような」ベージュのジャージーで製作したコレクション。
美しい対比と、時代に影響されない組み合わせ。
一体、このような色彩感覚をどのように得ることができたのだろう。答えを探してみると、そこには、少女時代のシャネルの姿があった。
ココ・シャネルの原体験
シャネルは、自分の選ぶものの源泉について、後にこのように語っている。
これは自分が育った場所について言っている言葉だ。シャネルは不遇の子供時代を過ごした。11才で母を亡くし、まもなく父も子供たちを修道院に残してアメリカに行ってしまった。
気持ちを打ち明けられる友だちと言えば、自分が遊び場にしていた墓場にある、「名も無い二つの墓」の下に眠る人たちだった。
深く傷ついた幼少期と、厳格な修道院での暮らし。その環境から多大な影響を受けたと言っていいだろう。
修道院の内部を覗くと、漆喰(しっくい)を塗った壁と「あまりにも濃くノーブルな」黒いドアがある。それは、シャネルがブランドのアイデンティティとして選んだ白と黒を連想させるという。
土を踏んでいるような感覚
さらに、子供時代のシャネルはとても活発で、軍隊に売るために飼育していた馬を乗り回していたらしい。
20才の頃には、厩舎を持つ資産家エチエンヌ・バルサンに出会い、森で馬に乗ったり、競馬を見に出かけたりしている。
シャネルの色彩感覚は、自然を感じながらアクティブに過ごした日々に養われた。デザイナーとして、自然に触れる感覚をそのままに再現していたのかもしれない。
ところでこのバルサンという人物、シャネルがパリに店を出すきっかけとなった重要人物だ。
次回からはパリに話を移したいと思う。
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おまけのはなし
ここまで読んでくださりありがとうございます。
初投稿の記事で、唐突に始めてしまったのですが、noteを始めたばかりでして、今後少しずつ自己紹介などをさせていただきたいと思います。
さて、シャネルの本名はガブリエルですが、どうして「ココ」と呼ばれるようになったのかご存知でしたか?
実は、一つの音楽がきっかけでした。
シャネルの口からは語られなかったエピソードです。
詳しくはCHANEL公式サイトのストーリー「No.5 ココ」をご覧ください。グラフィックが圧巻なので興味のある方は是非。
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