少女モラトリアム

「大人って何?」
ばさばさと、忙しない羽音が茜色の空を紺に染め上げる。
北を指すように規則正しく整列し、入れ替わるそれに人差し指をかざす。
「ああいうのじゃない?」
小難しい顔をして俯くさーちゃんから、再び昼のエンドロールのような空に目を移すと、もうカラスの群れは空高く私達の手の及ばないところまで登っていた。言われようもない敗北感が胸に蔓延る音がした。
エンドロールも終盤を迎え、土の香りもいつの間にか夜の香りへと変貌を遂げる。
街頭 暗闇 街頭 暗闇 暗闇
「大人になりたいん?」
「だって子供のままじゃ何もできんよ。どこにも行けんし。」
ふーん。と相槌を打ってみるも、私には彼女が何を言っているのかはさっぱりだった。
どこか。彼女は、この街を出ていくつもりなのだろうか。生憎、聞く勇気は出なかった。
もしその時が来たら、彼女は私を連れて行ってくれるだろうか。
分からない。
誰かの小説で読んだことがある。
「大人は形骸化した外殻に囚われる者たち。外殻の外側にいる色を持った者たちはいずれモノクロに染まり排除される存在なのだ」と。その作者の言っていることが本当だとするならば私には「大人」というものが待望し、詮索するくらい良いものには思えなかった。子供だからできることも、許されることもたくさんあるのに、私にはそれを伝えるすべがない。
幼少期の美しさは大抵大人になってから気づくものだと思う。高校生の私も幼少のころをふと思い出し憂いを感じることが増えてきた。
そうして、その儚さを言語化できるようになるのも大人になってから。
「早く、このクソ田舎から出ていかなきゃ」
彼女の瞳がすっと、三日月を宿した。
大きな目。輝く星々を閉じ込めて、偽のまばゆさを我が物に。
「じゃあさ、なってみようよ。大人に。」
「どうやって?」
頭には父と、母と、先生の姿があった。
働く、家事をする、子供を持つ、働く、働く。
繰り返し。
「あ」
「びっくりした。急に大声出さないでよね。イノシシでも出てきたらどうするのよ。」
「ピアスは?大人っぽくない?」
彼女の大きな瞳が揺れるのを見た。

「行くよ?」
片手に持ったプラスチックがカタカタと歪な音を響かせている。
「ちょっと待って!そんな震える手でやらないでよ!!」
「行くよ!?」
ついさっきまで飄飄とした顔で私に指示を飛ばしていた友人の豹変っぷりにこちらまで動揺してしまう。ピアッサーから歪な音が止んだと同時に、ばちんと威勢のいい音が響き渡った。力の籠りすぎた指をそっと引き金からずらし、さーちゃんの顔を覗き込んだ。
さっきまで苺のようだった彼女の頬は青白く染まっており、ふっくらとした頬には冷や汗が伝っていた。
「大丈夫?そんなに痛かったの?」
誰が悪いと言う訳ではないのだろうが、私の心には得体のしれない罪悪感が宿り始めていた。うんともすんとも言わない友人に、脂汗がどっと湧き出た。
「さ、さーちゃん?」
「ん?」
きょとんとした顔で振り向いた彼女の頬にはもう、いつも通り血が通っていた。ほっとついた息に熱がこもっている。
「痛かった?」
「いやぁ、そんなに。思っていたよりは、痛くなかったよ。」
彼女のほっそりとした指が充血した耳たぶにそっと弧を描く。真っ赤になった皮膚の中心で煌々と光を放つピアス。
ふと思った。大人は本物のダイヤと偽物を見分けることができるのだろうか。
子供である私には分からない。3000円のピアッサーに備え付けられている耳飾りだ。
十中八九偽物だろう。でも私には十分すぎるくらいまぶしかった。
屈折した光が私の瞳孔をきゅっと締め付ける。
「どう?大人ってわかった?」
「…ううん。全然。ただのクソガキの付け焼刃感がいたたまれないよ。」
口が悪いなぁ。そう、言いかけて止めた。
モラトリアム。最近授業で習った言葉が頭に浮かんだからだ。
綺麗なさーちゃん。そのままでいてね。

「けほっ」
きゅっと喉の閉まる音がした後、短い灰色が彼女の口からはみ出るのを見た。野焼きのそれよりも随分と色の薄いそれは重たい湿気の中を平衡に漂い、雨粒に打たれて消えた。
七色の歪な光を浮かべる雨水が排水溝に吸い込まれていくのを見て、漠然と思考を巡らせる。彼女は、さーちゃんは大人になって何がしたいのだろう。
何をしても「若い」というレッテルで許容を得られる今を溝に投げ捨ててまで、彼女は何になりたいのだろうか。
私には分からない。それはきっと私たちが少年だから。「大人になりたい」と子供じみたセリフを吐き、もがき苦しむどうしようもない子供だから。
だからね、さーちゃん。私たちはどこにも行けないんだよ。
唇がぎしっと音を立てたころ、ふと彼女の腕に目が留まった。
濁った、ちょうど今日の田園のような鈍い色の痣が長袖からにじみ出ていた。
「さーちゃん。それ…」
苦い顔で灰を落とし続けている彼女の瞳が一瞬、大きく開かれるのを見た。
と同時に私の心臓は激しく脈を打ち始めた。自分は此処に居ると主張するように。まるで彼女の視線に打ち砕かれたようだ。
私の頭にはもはや罪悪感が湧き始めていた。
聞いてはいけなかったかもしれない。
聞いてはいけない?なぜ?
問いかけを消そうとしても、開いた口から出てくるのは情けない母音の連続だった。
穴の開いたオーニングから雨粒が滴るのがやけに長く感じた。
「あぁ、なんだこれか。ほら、昨日の技術の時間に金槌でさ」
混乱しきっている私の頭に一つ、甲高い悲鳴が響いた。
さーちゃんのだ。
「な、なぁんだ。それかぁ」
ほっと撫でおろした胸には昨日、金槌をもって教室を駆け回る彼女の姿がった。
「大丈夫、三日で治るよ。」
ぱっぱと点滅する街灯の下で彼女は微笑む。
からんという音とともに捨てられた虚構。
住宅街のはずれにある田中商店のボケたばぁさんをだまして買ったセブンスター。
もうアイス、食べられないな。

「祈、大人ってなんだと思う。」
この一週間で嫌というほど繰り返された問いかけに私は溶けかけた脳みそをかき集めた。
ピアス、たばこ、酒。
どれを試しても、結局手に入ったのはしょうもない罪悪感と空しさだけだった。
それは彼女も同じようでさーちゃんの瞳は日に日に憂いを帯びていっている気がした。
いつからだろう。彼女が夏でも長袖を着るようになったのは。
「ねぇ、祈。死んだー?」
「あぁ、ごめん。…大人ねぇ。」
彼女の耳をそっと見つめる。夏だからか、少し膿んでいる。
授業中響く咳払い。喘息なんだからやめとけって言ったのに。
たまにハイになって夜中電話をかけてくるのも、止めてほしい。
私はもう二度とアルコールなんて摂取したくない。
「大人って「無い」と思う。」
「無い?」
「うん。青春、今まで自然とできていた友人も、猶予期間も、夏も、何もないから。
それに大人って、なって初めて気づくものでしょう。」
「うーん確かに。」
深くうんうんと頷く彼女を横目に言葉をつづける。
「スカートを折って、安価の自己欺瞞で心を埋めている私たちは、大人にはなれない。」
ぽつ、ぽつと言葉を紡ぐたびに、私が崩れていく。私という外殻が壊れていく。
ペンギンのヒナは成体よりも体が大きいことで有名だ。何故と疑問を呈する人間もいるが、
私達も同じだと思う。
取捨選択を繰り返すあまり、私たちは私たちを失っていく。
剥がれた外殻は地に費え、空白が私たちを迎える。
膨大な夢も、思想もモラトリアムとともに失われていく。
だから、私はまだ大人にはなれない。

ありきたりな表現だろうか、
静寂の夜を切り裂くサイレン。
止まぬ怒号。
寒いよ、まだ九月なのに。
幸ちゃん。

大人にはなれない、そう、彼女に告げた翌日さーちゃんは死んだ。
子供のまま、彼女は死んだ。
「幸ちゃん。」
触れても、近づいても彼女がその手に熱を宿すことはない。
ただ喉の詰め物の独特の匂いが神経に触れるだけ。
葬式に彼女の両親の姿はなかった。当たり前か。そう思った。
あの夜、彼女の父親は轟音を放つ警察車両に連れ去られた。
視界が真っ白になった。
「なんで、教えてくれなかったの?」
青白く染まった彼女の唇は、もう二度と、どんな言葉も問いかけも紡いでくれやしない。
暴力に耐え忍ぶことがあなたの中の大人なの?そうなら、それは間違ってるよ。
希望を捨てまいと抗う子供。あなたはそうだったはずでしょう?私があんなことを言ったからあなたは抗うのをやめてしまったのかな。
もう一度言ってよ。大人って何って。聞いてよ。
覚まさせてあげるから____

そうして私の願い通り、さーちゃんは永久に綺麗なままになった。
真っ白になった彼女を見た時、「彼女らしい」と思った。
ごめんねさーちゃん。私ほっとしてる。
貴方が子供のまま死んでくれて。
大人って、汚いよ。
穢れの中に美しさを見いだせる大人は一握りだよ。
美しさを見つけられなかったから、貴方のお父さんはあなたを殺したんでしょう。
子供にだってできることはたくさんあるよ。どこにだって行けるよ。
だって、私たちは子供だもの。生きようともがき苦しめる子供だもの。
さーちゃん言ってたよね。「辛いに一本線を足すと幸になる。その一本はどこから来たの?」って。私、答えたくなかったよ。それに当てはまる「答え」を作ることが、他人から線を奪い取るのが大人だってわかってたから。貴方の幸には最初からピースが足りなかったんだよ。さーちゃん。
大人にだって、ならなくて良かったんだよ。
私たちは点だった。それを繋いであげられなかったのは、私。
だから、奪わせてあげる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?