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陽は翳りゆく 第一話

あらすじ
 魔を封じ込めるために存在する古びた洋館で暮らす者たちの物語。彼らの過去や出会いと別れを、短編連作で綴る。
 自身が魔物であることが疎ましい音弥は、異界に引き込まれて戻れない千浪の無垢さに惹かれている。洋館にはほかにも多くの者がいる様子だが、彼らには見えない。
 住人たちを管理する洋館の主と彼ら2人の平和な日々が終わりに近づいたある日、主は音弥に「千浪を喰って人になれば」と提案する。音弥と離れ離れになりたくない千浪も、その考えを受け入れていたが、音弥は拒否。やがて最後の日が来て、千浪の姿は消える。音弥は記憶をなくし、主と2人きりで館に残される。


一 春宵の饗

 屋敷は中世風のつくりで、ひどく古めかしい。それでいては寂れては見えず、むしろ瀟洒だ。まったく似ていないにも拘らず、かつて暮らしていた場所の数少ない記憶が呼び起こされるような気さえする。
 初めてここを訪れた日に抱いたその印象は、幾年も経た今もあまり変わっていなかった。洒脱でどこか懐かしく、けれどとても遠い。自分が本当にここに住んでいるのだと、なぜか実感できないところがある。
 やがて陽は翳りゆき、夜が来る。屋敷に閉じ込められた退屈な夜だ。それはまるで万華鏡を覗いているかのようでもあった。美しいけれど、決して逃れ出ることのできない世界だ。繰り返される秩序。そのために閉じ込め、守る。だが守られているのは、自分なのか、世界なのか。
 恐らくは双方であることは、本当はわかっていた。望んでやってきたわけではないが、ここへ来る以外生き延びる道はなかったであろう。音弥おとやは硝子の向こうの空を仰いだ。深まった蒼色が既に日暮れを思わせる。今夜の月は佳麗だろうか。いっそあの光が、すべてを浄化してくれたらいいのだけれど。
 屋敷の中では、何かが蠢き始める気配があった。白昼より暮夜に息づくものの方が、ここには多いのだ。大半は姿を窺うこともない。気配にしても、感じているのはごく一部に過ぎないだろう。より敏感なものが多くを察し、波長の合ったもの同士だけが出会う。ここはそういう場なのだ。ほとんど何も気づかぬものもいる。たとえば──
「音弥!」
 足音を忍ばせつつやってきて、いきなり大きな声を出したこの少年、千浪ちなみなどはその代表だ。音弥は溜息をつきながら振り返った。千浪は巻毛を揺らして笑っていた。近づいてきていたのは無論わかっていたが、びっくりしたでしょ、と得意そうな顔を見せるので、返事代わりに肩を竦めた。
「ぼーっとしてるからだよ」
 無言のままなのを肯定ととったらしい。千浪の笑みは、いっそう楽しげなものとなった。
「課題はもう済んだ?」
「……いや、もう少しだ」
「じゃあ、早く終わらせなよ。済んだら庭に来て。今日は十三夜月だからさ」
「まだ月が出る時間じゃないぞ」
「じきだよ。日暮れ前から昇るんだもの」
 何となく気が滅入るのは、満月が近いせいか。音弥は無邪気そのものの千浪の笑顔を複雑な思いで見る。つと視線を逸らし、すぐに片づける、といった。
「先に行ってるね。さっき猫が迷い込んでるのを見たんだよ。一緒に遊べるかも」
 猫が気になるのだろう。千浪はすぐに身を翻し、廊下を駆けていった。音弥はそのまま其そこに佇んでいた。元より彼に課題などありはしないし、猫もここの庭も好きではなかった。だが、千浪に不審に思われるのは厄介だ。行かざるを得まい。どうせ、いつものことでもあった。しらばく時を置いて歩き出せば、廊下は既に薄暗く、処々に吊るされた洋燈にはいつの間にやら火が点されていた。

「音弥」
 螺旋階段近くの部屋の前まで来たとき、不意に名を呼ばれた。茶褐色の重そうな扉が音もなく開く。中を覗くと、屋敷のあるじが奥から彼を招いた。
 何の用だよ、といいながら音弥は室内へ入る。いつ訪ねても眩暈のしそうな部屋だ。得体の知れない小動物の骨格標本。人魚と覚しきものの液体漬け。棚から溢れ出し、危うい均衡を保って床に積まれた洋書。もはや骨董品の域の月球儀や天球儀。部屋を覆う謎めいた品々は、大理石で飾られた暖炉や贅を尽くした調度と妙にちぐはぐだ。
 背後で扉が閉まる直前、目の隅で何かが動いた気がして、音弥は振り返った。動物の尾のようなものが、すうっと廊下へと消えたようだった。黒に近い灰色。大型の犬か、あるいは。
「新しく、何か来たのか」
 閉まった扉から、主に視線を移して訊ねる。
「ずっと前からいたさ。どうやら波長が合ってきたらしいね」
 和装にまばゆい金髪という、不調和さの真骨頂めいた姿の主が、うっすら笑みを浮かべて答えた。
 今日は、季節を先取りしたような紗羽織を纏っている。完璧な美は魔を引き寄せるから態と崩しているのだよ、などといっている癖に、ちぐはぐなりに様になっているのが常なのは納得がいかない。そもそも、魔物ばかり集めておいて今更何をという話でもある。
「そう苛々するものじゃないよ。月の出までには、今しばらく時間があるだろう」
「別に苛々なんかしてねえだろ」
 心緒を読まれ、音弥はぶっきらぼうに応じた。陰陽師の末裔とも元修験者とも噂のあるこの主と二人きりというのが、何より落ち着かないのだ。向こうとてそれは知っており、揶揄でいってくるのだから腹立たしい。何の用だ、と音弥はもう一度訊ねる。千浪には可愛い犬に見えるだろうな、という言葉が返ってきた。
「さっきのやつか?」
 音弥は主がくつろぐ長椅子へと近づいた。主は玩んでいた妙に大きな鳥の頭蓋骨を音弥に手渡すと、お茶でも淹れよう、とのんびりした調子で立ち上がった。
「いらねえよ」
「せっかく新しい茶葉が手に入ったのに」
「紅茶は嫌いだっていってるだろ」
「私は珈琲が苦手だしなあ。お互い、わかり合えないのが残念だ」
「別に残念じゃねえ。それより訊いたことに答えろよ」
「今でも、やっぱり人になりたいかい」
 こうしてはぐらかしてばかりなのが、ここの主のやり方である。心底腹は立つが、従わないわけにはいかなかった。音弥はしばらく黙り込んだ後、人間に戻りたいんだよ、と小声で答えた。
「君が人だったことはないよ。ただ、気づいていなかっただけだ。子供の頃は、人と同じ食べ物で済むからね」
「だったら子供のまま死ねばよかった」
「君の、弟みたいにかい」
 金の巻毛。榛色の瞳。二度と帰れない日々が、ふと蘇った。あまりに遠すぎる記憶だった。この期に及んで感傷などあるはずもない。ただ、いってみただけだ。
「千浪は、君の弟に少し似ているね」
「逆撫でするんじゃねえよ」
「彼の肉を喰えば、人になれる」
「何だって」
「君だけじゃない。ここには、人を食糧とする魔物ばかりが集まっている。千浪の肉か血か、魂か。それぞれが必要とするものを奪えば、奪ったものは人になるんだよ」
「それで、千浪はどうなる」
「死ぬよ、もちろん。何にしたって、完全に奪い尽くさなければならないからね」
「そんな」
「それじゃあ意味ないかい。けれど、人の肉を喰いたいという欲求には悩まされなくなる。それに君は千浪と違って、人になったらここを出てもいけるしね」
 暖炉飾りに置かれた燭台の蝋燭に、知らぬうちに火が点っていた。彫像のように整った主の横顔が、灯影に揺らめく。手の中の頭蓋骨を床に叩きつけたい衝動を、音弥は何とか堪えた。
「どうして、今、そんな話を聞かせるんだ」
「先刻の彼が見えたようだったからね」
 先ほどの動物のような何かのことだろう。ようやく話が戻ったらしい。
「君たちはここに閉じ込められているが、何もかもずっと同じままというわけじゃない。見えるものは、少しずつ変わっていく。誰かと波長が合えば、誰かとは合わなくなるかもしれない。君と千浪も、例外ではないよ」
「お互い、見えなくなる可能性があるっていうのか。あいつがここへ来てから今まで、一度も波長がずれたことなんてないのに」
 主は、ふふっと軽く笑った。同情と嘲笑とが同時に含まれたような笑声だった。
「いつの間にか、人の時間感覚になったらしいな。彼がここへ来てからの時間は、君にしたら僅かな間のはずだろう」
 十年。いや、もっと長かったのかもしれない。いずれにしても、確かにあっという間ではあった。けれどその間に、千浪はずいぶんと大きくなった。今はもう、ほとんど弟とは似て見えないほどにだ。
「千浪は偶さか拾っただけだ。人としても弱過ぎて、外の世界では長生きできない類なのだよ。見えなくなれば、彼に触れることもできなくなる。無論、その肉を口にすることもね」
「やめてくれ」
 人ではないやり方で人になったところで、その後どうして安穏に生きられるというのか。そう質してやりたかったが、訊いたところで意味がないのもわかっていた。主は音弥を導いたりはしない。彼はここの番人に過ぎないのだ。
「ずっとこのままで居続ける気なら、私が消えるときには君を後継者にするつもりだよ」
 背を向け部屋を出ようとする音弥に、忌々しい追い打ちがかかる。あるいは主自身も、ここに閉じ込められているものの一人なのかもしれなかった。

 遅かったね、と千浪がいう。微かに花の香を含んだ風が吹く庭。昇りかけた月の淡い光が、茶の巻毛を滑って散っていた。
「課題に──」
 てこずったの、といいかけたのだろう。しかし腕の中の猫が突然逃げ出したので、千浪は慌ててそれを追いかけ始めた。
 猫が逃げたのは音弥のせいだ。動物は人よりもずっと敏感に魔のものの気配を察する。眷属としない限りは、本能的に危険を感じて避けようとするのだ。そもそもこの屋敷の敷地内に普通の動物がやってくること自体珍しい。それでもごくたまに現れるのは、恐らく千浪がいるせいだろう。
 音弥の銀色の長髪を、風が揺らしてゆく。振り仰げば月の輝きは弥増し、光に晒されるほど身体から力が抜けるような気がした。
 光は苦手なのだ。新月の夜が一番楽だ。けれど光を浴びたからといって別に死ぬわけではない。ここに閉じ込められた魔物たちは、時を奪われているようなものである。魔の力を発揮できない代わりに、死ぬこともない。苦手なものに触れても、呑まず喰わずでもだ。
 つまりはここにいる限り、人を喰らう必要もない。たとえ欲動に苦しむとしても──
 それが我慢ならない連中も、当然いるだろう。けれどここでは、その怒りさえもやがて封じられてしまう。なぜ殺さないのだろう。どうして閉じ込めているのだろう。疑問ではあったが、千浪が現れた時から、音弥はあまりそのことを気にしなくなっていた。
 ムラクモ、と千浪が大きな声で猫を呼んでいた。随分と妙な呼び名にしたものだ。見れば、白と黒の斑の仔猫である。槐の枝に逃げようとしたところを容赦なく捉え、嬉しげに抱いて千浪は戻ってきた。
「ほら、見て。すごく可愛いよ」
 猫は好きではないと常々いっている。それでも遠慮なく自分の趣味を押しつけようとするところは、いかにも千浪らしかった。先ず以て、猫にはいい迷惑に違いない。
「叢雲って名前なのか」
「うん。さっき先生がいってて、響きがいいなと思ったから。意味はわからないんだけど、こんなに月が綺麗な日にやってきたんだし」
 先生、というのはここの主のことだ。そう呼ばれる資格を持っているとも思えなかったが、勉強を教えて貰っているためか、千浪はその呼称を使っている。
「ええとね、ツキニムラクモ、だったかな」
 千浪は、本当に意味を知らないのだろう。まるで棒読みで口にして、ツキはあの月だよねと視線を上向けた。
 玲瓏な光を映し込み、黒鳶の瞳が潤んだように揺れた。主との先刻の遣り取りを思い出し、音弥は唇を噛んだ。今のこのときは刹那の恩恵に過ぎないと、何としてもわからせたいのだろうか。あいつめ、余計なお世話だ。
「わっ」
 千浪が出し抜けに驚いた声をあげた。音弥の目の前を斑模様が過る。ずっとじたばたしていた猫が、気が逸れた隙を突いて千浪の腕から抜け出したのだ。その肩を越え、ぴょんと地面に飛び降りると、仔猫とは思えぬ俊敏さで走り出した。
「待ってよ!」
「もう、やめておけ。嫌がっているんだ」
 再び後を追おうとする千浪の腕を掴み、音弥は引き留めた。その眉が僅かに顰められる。血のにおいを感じたのだ。思わず腕を放すと、千浪が振り返った。
「だって」
 不満げにいい募ろうとするその頬に、二筋の血。猫が逃げるときに、引っ掻いていったのだろう。傷は意外に深いのか、あっという間に滴って襯衣の襟を汚した。
「血が出てる」
「え」
 千浪は猫に去られた悔しさで興奮していたらしい。いわれて初めて、痛みを意識したようだった。慌てて手で頬を押さえようとする。音弥は素早くその手をとめ、代わりに取り出した手巾を頬に当ててやった。
「これで押さえておけ。屋敷に戻って手当をしよう」
 千浪の肩を押し、ともに歩き出そうとする。だが千浪は動かず、幾分じゃけんに音弥の手を払った。
「いいよ、そこの水で洗うから」
 玉桂を映した瞳は、庭の真ん中に陣取る噴水を示していた。音弥は一瞬口を噤んだ後、面倒がるなよ、と諭した。
「噴水の水なんて不衛生だろ。傷が化膿したらどうする」
「別にいいよ」
「千浪」
 駄々を捏ねる弟を宥める兄のような口ぶりで、音弥は少年の名を呼んだ。猫が逃げたせいで不機嫌なだけだと思ったからだ。地面に落ちた手巾を、やけにゆっくりした動作で拾い上げる千浪を、辛抱強く見守る。その間にも、血は頬を濡らしていた。
「血のにおいって──」
 手巾についた自身の血を見たまま、不意に千浪がいった。
「どんなふうに感じるの。やっぱりご馳走だなって思うわけ」
「何だって」
 音弥は再び眉を顰めた。それから沈黙する。言葉を聞き違えたのでは、とも訝った。顔を上げた千浪が、じっとこちらを見ていた。思わず逸らした視線は、手巾の赤い染みに釘付けとなった。
「僕、知ってるんだよ」
「知ってるって、いったい何をだ」
「君が人を食べて生きる鬼だってこと」
「何を、つまらないことを」
「本当はこの庭も嫌いなんでしょ。僕につきあって出てはくるけど。だって、菖蒲とか魔除けの木とかばかりだものね」
「くだらない。鬼なんて、この世に居やしないさ」
「嘘つき」
「だったら、何か証拠でもあるっていうのか」
 これでは売り言葉に買い言葉だ。愚かな応答をしてしまったと、音弥は即座に後悔した。
 けれど実際に人を襲ったことはないのだから、証拠もあるはずはなかった。この庭にしたところで、光を浴びることと同じく、好みはしないが居ても別に平気だ。あれらは単に、主の悪趣味で植えられているだけである。魔除けだからといって、触れたら身体がとけるというわけでもない。糾弾されるべき証など、どこにもありはしない。
 だが千浪は、なぜか勝ち誇ったような顔つきになっている。
「水は真実の姿を映す」
 らしくもない冷徹な口調でいい放たれ、音弥は肩を竦めざるを得なかった。
 なるほど、だから噴水などといい出したのか。水は確かに苦手だった。人の手で作られた鏡や硝子なら上手く誤魔化すこともできるのだが、やはり自然のものには敵わない。水面に映る自身の風姿は、普段は考えないようにしている本当の姿だ。
 とはいえ、普段は気をつけて近づかないようにしていた。子供の頃に溺れかけたから水が怖い、といった見えすいた嘘まで伝え、その振る舞いが自然に見えるようにもしていたではないか。一緒に風呂に入ったわけでもなし、いったいどこでしくじったというのだろう。
「水に、何が映ったっていうんだ」
「君の影」
「影?」
「この間の新月の時だよ。真夜中に庭を散歩してたでしょ。僕、珍しく夜中に目を覚ましちゃって、新月だし、真珠星が綺麗かなと思って廊下に出たんだよ。そしたら、君の姿が見えたんだ」
 先の新月の夜。光の弱さに幾らか気が晴れて、迂闊にも庭をうろついた。その時、確かに噴水の傍へも行っていた。
「あんな暗い夜に、影なんて見えるはずないだろう」
「暗くなかったよ。星明かりがあったもの。僕、目がいいからそれで十分なんだ。あのとき、水面に映ってた君の影──あれ、人のものじゃなかったよね」
 音弥は内心、臍を噛んだ。少々油断をしたかもしれなかった。普段の千浪は、幼子宛らの寝つきのよさの上、一旦寝入ったら朝まで目を覚まさない。それがまさか、月のない夜に庭をに眺めていようとは。
「どんな様だったのかは知らないが、いずれにしても見間違いだ。薄闇の中で水に映った姿なんて、誰のだって不気味に見えるものさ」
 一応、しらばくれてみる。だが、あまりに空々しく聞こえ、音弥はそれ以上の弁解を諦めた。何しろ事実なのだ。いさかったところで勝ち目はあるまい。それにしても、星を眺めるつもりで余計なものを見てしまうとは、これもまた千浪らしい話であった。我知らず、笑みが浮かんでくる。何がおかしいの、千浪が鋭く咎めた。
「別に。それで?」
「それでって」
「もし鬼だと知ったとして、それでどうする気だ」
「どうって──やっぱり、本当なの」
 千浪の目が大きく見開かれる。本当さ、と音弥は答えた。
「今更、何だ。姿を見ただけで人を喰うことまでわかるわけがない。どうせ、あいつに確認済みなんだろう」
「うん、まあね。そうなんだけど。そっかあ。よかった」
 驚いたことに、返事を聞いた千浪は急に様子を一変させ、晴れやかに破顔した。よかった、という言葉を咄嗟に解せず、音弥は唖然とした。
「何がよかったんだ」
「だって、教えてくれないかと思ってたから」
「どのみち、あいつから聞いていたんだろうが」
「そうだけど、音弥から直接聞きたかったんだよ。友達なのに秘密にされてるなんて嫌だもの。いつ訊こうかなって、ずっと迷ってたんだ。丁度よかったよ。血、まだ出てる?」
 千浪は先ほどの仔猫並みの敏捷さで駆け出して、噴水へと近づいた。今の応酬への興味は、完全に失せたらしかった。水上に身を乗り出すと、映る姿でしきりに傷を確認し始める。水をすくって傷を洗う勢いだったので、追うのを躊躇っていた音弥も慌てて傍へ行った。
「おい、駄目だ。屋敷で処置しろ」
「平気なのに」
 煌々たる月影の下で、水面にふたつの姿が揺らめいていた。人と、人ではないもの。角を持つその容は、影からして既に明らかだ。熟熟と水面を覗き込めば、茶の巻毛の隣にあるのは、銀髪の美少年とは似ても似つかぬ悍ましい姿だ。力を封じられていてさえ、やろうと思えば千浪を引き裂ける気がする。鋭い牙と爪とを突き立てて、その肉を食み、血を啜り──
「音弥はいつか僕を食べようとするかもしれないって、先生がいってた」
 音弥は溜息をついた。あからさま過ぎると思うのは自分だけか。もしや千浪と主の方が、まともなのだろうか。
「俺は人を喰ったことはない。そういう種族だってだけだ」
「じゃあ、僕が最初?」
「やめろ。おまえ、自分が何をいってるかわかってるのか」
「わかってるよ。音弥こそ、どうして知らないふりをするのさ。僕が食べたくないの。本当は、僕のことが嫌いなの」
「そういう問題じゃないだろう」
「そういう問題だよ。僕が鬼なら、きっと嫌いな人間は食べたくないもの。嫌いな食べ物を食べないのと同じ」
「飢えれば、たぶん何だって口にするさ。千浪は偏食が過ぎるんだ」
「そりゃあ、僕は好き嫌いが多いけど。話を逸らさないでよ」
 頬の血はとまりかけていたが、それでもにおいは鮮明だった。冴え始めた月の光を受けて輝く茶の巻毛と黒鳶の瞳。こんなふうに拘りもなく魔へと誘う千浪こそ、まるで鬼のようだと音弥は思った。
「俺に、どうしろっていうんだ」
「音弥の好きにしていいんだよ。食べたかったら食べて。僕は構わないから」
 音弥は耳を疑って首を振る。
「冗談じゃない。おまえ正気なのか」
「もちろん正気だよ」
「馬鹿げてる」
「馬鹿げてないよ。今でもいいんだ」
 千浪は、やけに強情に迫ってきた。元々いい出したら聞かない性分なのは、よくわかっている。音弥は我慢できなくなり、出し抜けに千浪のほっそりした首に手をかけた。なら遠慮なくいただくぞ、と囁くと、今までの勢いはどこへやら、千浪の様子は再び一転した。
「何だよ。自分からいい出しておいて怖がるな」
「怖がってないよ」
 いいつつも、その身は強張り、顔にはひどく怯えた色が浮かんでいる。
「怖がってるさ」
「怖くなんかないってば」
「まったく。おまえも嘘つきだな」
 音弥はあっさり手を放した。無論、何をする気もありはしなかった。ただ少し脅かして、意趣返しをしたかっただけだ。少なくとも、今はそうだ。
「何でやめるの」
 口ぶりだけは非難がましく千浪がいう。見上げる瞳には、明らかに安堵の気配が漂っていた。
「そもそもここでそんなこと、できやしないんだ」
「じゃあ、先生に協力して貰えばできるの」
「やめろって」
「だってさ、いつか会えなくなっちゃうかもしれないんでしょ」
 千浪は、ふっと俯いた。白い頬が、泣き出す前の小さな子供のように微かに震えていた。
「……だから、なのか」
「離れ離れになるのなら、同じことでしょ」
「同じじゃないさ。こんなこと無茶苦茶だぞ。あいつのいうことなんて気にするな」
「先生は嘘はいわないよ。僕が外の世界で生きられないっていうのも聞いたけど、きっとそれも本当だよね。もしもここから出たら、すぐに魔のものに襲われちゃうんだよ」
 千浪が、顔を上げて顧みた。その視線を追えば、目に飛び込むのは月光を浴びた屋敷の優雅な輪郭である。夜空に映った精巧な影絵のようにも見える。張り出し窓の灯りの奥に蠢く朧な姿は、主のものだろうか。
 何もかもがぞっとするほどに美しかった。ここはまさに、魔が棲むには相応しい処なのかもしれない。いや、魔物以外が囚われるべきではないのだろう。本来ならば──
「ここはとっても綺麗だけど、でも僕は洋館ってそんなに好きじゃない。何だかちょっと息苦しいもの。それより、縁側なんかがあって風がよく通りそうな家がいいよ」
 ほとんど脈絡なく聞こえる千浪の言葉。いつか住めると思う、とぽつり続いた。
「そんな家に、一緒にさ」
 小さな声でいう。できるわけがない、と音弥は思った。けれど、そうはいわなかった。同じ気持ちなのだろうかとも考えてみる。だとしても、それで満足というものではないのだけれど。
「そのうちな」
 他にどういってみようもなく、そう応じる。千浪は、くすくすと笑い出した。
「なら、他の魔物に襲われそうになったときは、ちゃんと守ってくれるよね。こいつは俺のだ、っていってさ」
「何をいってる」
 俺のだ、とはいったい何だ。千浪のやつ、本当に自分のいってることがわかっているのだろうか。
 音弥は呆れ果て、もはや盛大に溜息をつくくらいしかできなかった。笑い続ける千浪は、うんざりするほど邪気がなく、それが更に枷となるであろうことは既にわかっていた。
 金の髪。榛色の瞳。幼くして消えた平穏な魂を羨み、恐れながら生きる。それでも、生きていてよかったと思えるときが来るのだろうか。
「猫、もう戻ってこないのかな。逃げたのって、やっぱり音弥が鬼だからなの」
 千浪が不意に問う。
「まあ、たぶんな」
「そっか。可愛かったのに。残念だな」
「あんなに無理に掴まえるんじゃ、猫も迷惑だろう」
「だから引っ掻かれた。仕方ないね。あとで牛乳を出しておいてあげようかな」
 そうしたところで、猫が再び訪ねてくるのはいつになることか。当分来ないかもしれないのだ。しかし千浪は、この深夜にでも来訪があるだろうと期待する顔で、庭を囲う柊の繁みを見つめていた。

 暗かった屋敷の車寄せに、ほんのり灯りが点った。そろそろ夕ご飯かな、と千浪がいった。
「その前に傷の手当だ」
「いらないよ。大丈夫。音弥は心配性だね」
 掴まえてみなよとでもいいたげに、千浪は屋敷へと駆け出した。豪奢な扉が迎えるように開く。玄関口に主の姿が現れた。辿り着いた千浪の顔を倩倩と眺めているらしかった。その後、大袈裟に肩が竦められた。
「おやおや、ひどい傷だね。音弥に引っ掻かれたのかい」
「まさか。猫だよ、先生」
「この庭に猫が来るとは珍しいね。ほんの戯言だよ。そんなに怖い顔をしないでおくれ」
 後半は、遅れて着いた音弥に向けて放ったのだ。主の口元には、やけに加虐的な笑みが漂っていた。千浪はまったく頓着しない様子で、お腹が空いたよ、と歌うようにいいながら中へ入っていく。
「手当してやってくれ」
「君がしたらどうだ」
「ごちゃごちゃいってねえで、やれよ」
「血のにおいに誘惑されるかい」
「いい加減にしろよ」
「千浪と話はついたのかな」
「話って何だ。あんたに関係ねえだろ。何でもべらべら喋りやがって」
「全部、本当のことだろう」
 主は含み笑いをする。音弥は主を睨んだ。
「俺に、どうしろっていうんだよ」
 今日、この言葉を口にするのは二度めだ。まったく、千浪も主もどうかしているぞと音弥は思う。
「千浪は拒まないさ。全ては君次第だ。私も退屈しているのだよ。ゆっくり物見をさせて貰いたいな」
「俺は、あんたの方こそ殺してやりたいね」
「君に私を喰うことはできないよ」
「あんたの肉なんて、こっちから願い下げだ」
「ああ、それは残念だな」
 主は、この上なく愉快だという態になる。それからふいと背を向けて、屋敷の中に戻っていった。絢爛たる装飾が施された玄関扉が音弥の目の前で閉まる。主が千浪を呼ぶ声が、微かに聞こえた。
 夜は繰り返し、果てることがない。古びた屋敷は魔と狂気とを閉じ込めて、いつしか黴のにおいで満ちるだろう。音弥は扉に寄りかかり、先刻の仔猫のことを考えた。猫の一匹くらい、いっそ眷属にしてしまおうか。あれが近くにいれば、きっと千浪は喜ぶはずだ。どうせ閉じ込められた世界なのだ。たまには万華鏡を廻して楽しむ側に行ったとて、罰も当たるまい。慰めが消え去るその日まで──
 月の光が、庭に黒々と屋敷の影を落としていた。永遠に地に刻まれるのではと思うほどけざやかだった。音弥はそれに一瞥を投げ、扉を開けて屋敷へと戻った。

第2話:https://note.com/nice_avocet49/n/nb931f61bc66e

第3話:https://note.com/nice_avocet49/n/n03f0d1a0a621

第4話:https://note.com/nice_avocet49/n/nc36e646685a6