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5分で読める小説 『年に一度の再会』

 
 
『年に一度の再会』



腕時計の長針が“9”を指していた。
待ち合わせの夜9時半を15分も過ぎている。

「ヒカリ、ごめん」

映画館内のグッズ売り場でパンフレットを見ている女性に声をかけた。

「よかった、お疲れさまね」

安心した笑顔を見せるのは心配性の彼女らしい。
彼女は決して「遅いよ」なんて言わない。

「もう始まってるよね…」
「うん、チケット買ったよ」

はい、と彼女が手に持った二枚のチケットから一枚分を俺に手渡す。

いつだったか、待ち合わせに遅刻しても怒る気がないのは「自分がいつも食べ終わるのを待たせているから」だと、彼女がイタリアンレストランで話していたのを思い出した。
ピザを美味しそうに食べながらそう言う彼女をいつまでも待ちたいと思った。

「ヒカリだけ先に観てても良かったのに」
「これ、隣じゃないと食べきれないから」

彼女がへへっと自分の顔を隠すように持ち上げたLサイズのポップコーンがバター醤油の暖かい風味を漂わせて、仕事終わりの食欲を誘う。

「食べきれないじゃなくて、隣がいいんだろ?」
と冗談交じりにツッコミたかったが辞めた。
俺のことが大好きな彼女をついつい虐めたくなるのは、「もう!」と困りながら笑いを堪えた顔も可愛いからだ。

「スーツ姿、かっこいい」
彼女からの突然の褒め言葉に照れる。

「いいから早く観よう」

そう言って足早にスクリーン6番の入り口に急いだ。


俺は知っている。
彼女は今日の帰りに死ぬ。

10年前の12月24日、俺は残業を理由に「今日は間に合わないから1人で観てきていいよ」と彼女との映画デートをドタキャンした。

彼女の財布から未使用のチケットが二枚出てきたこと、パンフレットを買っていたことを彼女の交通事故後、搬送先の病院から聞いた。

それだけ映画を楽しみにしていたのに、彼女は映画の上映時間が終わるまで俺を待ち続け、観ずに帰ったのだ。

彼女は映画が好きで、映画館の付き添いによく誘ってくれたが、何より俺と観るのが好きだったのだ。彼女が亡くなって初めて気付いた。

彼女は今日の帰りに、あの日トラックに轢かれた横断歩道の必ず同じ場所で消える。
本当は助けたいが、彼女はもう生きていない。生き返らない。

彼女が「亡くなった」という事実は変えられないけれど、あのクリスマス・イヴの後悔の念から、年に一度だけ、12月24日の夜9時半に映画館に足を運ぶと、不思議なことに必ずあの頃の彼女が待っているのだ。

しかし、今の俺には奥さんと子どももいる。
毎年こうして会うのは、いくら幽霊だとしても厳密に言えば浮気だ。
だからヒカリとは手も繋がないし、キスもしない。

奥さんは俺の人生にとって一番落ち込んだ時に支えてくれたかけがえのない大切な人だ。自分の命より大切な子どももいる。この2人を裏切るようなことはできない。

初めて映画館で死んだはずの彼女を見たときは、言葉を失った。それは、未だかつて味わったことのない恐怖とも言える驚きだった。
しかし「何驚いてるの?」と笑う彼女のあまりにも自然な温かそうな肌を見ると、目の前の空間だけ彼女が生きていた頃に戻っていくような、妙な感覚が全身の細胞へじんわりと広がった。
そして、非現実的なことが起きているという脳内の違和感はすぐに消えた。


「またね。」
「うん、またね。」

映画を見終わると、クリスマスシーズンのカップルには相応しくない別れを告げる。

息子が3歳になって、“パパ”の帰りを喜んで待つようになったにも関わらず、毎年「残業」と嘘をついて決まってクリスマス・イヴに不在だと、奥さんからそろそろ怪しまれてもおかしくない。

「帰り道、気をつけてね」
死んでいるとわかっていても声を掛ける。

「うん、ありがと」

また一緒に映画観ようね、と言いかけたとき、突然彼女の一言が心臓を貫く。

「息子さん、元気…?」

え?

「…知ってるの?」

「うん。知ってた。ごめんね…」

……。

「来年からは大切な家族と一緒に過ごさないとね。サンタさん、がんばらなきゃだよ」

「うん…」

「わたし充分楽しかったよ。」

「ごめんね、あの時…俺…」

「謝らないで。あの頃は新入社員だったのにね。今は30代の頼もしい先輩になって安心した」

「…もう会えないんだよね?」

そう言って見つめた彼女の目は少し寂しそうだったが、口元はにこやかに結んでいて、黙ってコクリと頷いた。

「思い出の中にお引越ししただけだよ。ずっと何年も毎年来てくれてすごく幸せだったよ。ありがとう…」

彼女の頬を伝う涙が雪のようにゆっくりと落ちた。

          ***         

今年のクリスマス・イヴ、小学校1年生になった息子と奥さんと手を繋いで、映画館前に新しく設置されるようになったクリスマスツリーを見に行った。
ケンタッキーでも食べようかと言うと食欲旺盛な息子は大はしゃぎだ。

「サンタさん、来るかな?」
「いい子にしてたら来るよ」
「ぼく、いい子にしてたよ?」

息子の言葉に奥さんと2人で笑った。
久しぶりの家族とのお出かけに、奥さんも微笑んで街に流れる「Silent Night」に合わせて鼻歌を歌っている。

毎年クリスマス・イヴの夜9時半にライトアップされるようになったこのクリスマスツリーが、今年も華やかに街を彩る。
もう映画は暫く観ていない。
あの頃よく通った懐かしい映画館の前で、見上げた大きなツリーの電飾が、不意に滲んでぼんやりと見えた。
街行くすべての人の心を照らし、俺たち家族さえ包み込むような優しい光だったから。
 
 
 
 
2020年12月24日

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