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[Discussion]【これからのものづくりを考える視点】寺川真弓さん

染織家の寺川真弓さんは、東日本大震災後に染織への向き合い方を大きく変えられました。それまでのように糸を購入し染め、織るという方法ではなく、桑を植え、蚕を育て、糸をひくというところから染織に取り組まれています。また、蚕を育てる経験から得られるものを作品とともに多くの人に伝えています。ちょうど大阪で個展を開催中の寺川さんに、蚕を育てること、織ることがいま寺川さんにとってどのような意味をもっているのかをあらためてお聞きしました。


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寺川真弓 織展
2021年3月3日(水)〜14日(日)/大阪 LADS GALLERYにて

―はじめに、繭から糸をひこうと思った理由をおしえてください。



今のように自分で繭から糸をひくようになったのは、東日本大震災がきっかけです。震災がおき、世の中に隠されていたものが一度に吹き出し、あらわになったことに衝撃を受け、自分のものづくりも一旦手がとまってしまいました。経済優先の社会を信じられなくなり、何をしていいかわからなくなってしまいました。そのときに、繭から糸をひいてみてはどうかとアドバイスをうけたことを思い出し、糸をひいてみることにしました。
自分のなかでは糸をひくというのは、製糸業を支えた女工哀史のようなイメージがあり、単調で大変な肉体労働のように思っていました。しかし、いざ糸をひきはじめてみると、お蚕さんが吐いた糸が一つひとつほぐれるように外れる感覚が手につたわってきました。お蚕さんは頭を8の字にふりながら糸をはいていきますが、その8の字から糸がはずれるときに「ちりちり」というかすかな音がして、それは命そのものを感じているような感覚でした。そのことに本当に救われた気がして、「ここからはじめられる」と確信しました。
もともと、繭から手でひいた糸も草木の色も自然の美しいもの。その美しいものに私は手を添えるだけでいいと思ったら、気持ちが楽になり、純粋にたのしく、こんなにたのしいことなら続けていけると思ったのです。


―「手を添える」という言葉が印象的です。もう少し詳しく教えていただけますか?



「自分が何かしなければならない」という自己中心の態度ではいきづまってくるように思います。自然のものはそのものがすでに美しく、それを布というかたちにするには、自分はじゃまをしないように気をつけて手を添えるだけでいいと思っています。


―寺川さんは繭から糸をひくだけではなく、土を耕し、桑の木を植え、お蚕さんを育てるということをはじめました。その元にまで立ち戻ったのはなぜですか。


手を動かしているうちに、どんどん原初に近づいていく気がするんです。
土、水、風、光、石など工芸的な素材はすべて地球のものといえます。草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)という言葉があります。これは簡単にいうと、地球上のありとあらゆるものに仏が宿り、人間と同じように魂をもつものであり、人間だけが特別な存在ではなくすべてのものが地球の一部にすぎないという縄文時代以後の思想を受けついだ考え方です。そこに立ち返ったときに救われるように思います。
工芸は決して仮想ではなく、こうした自然のもの、実際にそこにあるものと向き合うことからはじまります。これが始原の祈りにもつながり、人にとっての救いにもなると思います。
手足を動かして、繭に向き合うことによって私は立ち直ることができました。きっと、深く傷ついた人や弱い立場の人にとって何が救いになるかといえば、強大な国家や宗教組織のような大きな物語ではなく、自然とつながる小さな個々の物語なのではないでしょうか。


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寺川さん自宅の桑の木

―Good Job!センター香芝でも寺川さんにすすめていただき、3年前から、お蚕さんを育てることに取り組みはじめました。その養蚕の活動のなかで、障害のあるメンバーから、「生糸を取ることはお蚕さんが死ぬということになる」という戸惑いの声がありました。そのことを寺川さんに相談したら、「お蚕さんもいのちを全うして死ぬことができたら幸せではないか。だからこそ、お蚕さんが生きている間は精一杯お世話をしたい。自分も生きていくなかで、いのちを全うできたら幸せだと思う」と話され、養蚕の意味がすとんと腑におちた気がしました。



生きているものは、いのちの循環のなかにいるからこそ、私はそのいのちを全うさせ成仏してもらいたい。お蚕さんも、命が終わるときに自分の役目を精一杯はたせたら本望なのではないでしょうか。糸をひくことは、いのちをもらうことで成り立つからこそ、その根底には愛と祈りがあります。手間がかかり、今の世の中とは逆行しているかもしれませんが、そこには金銭的な収益や効率にはおかされない透明な意思とでもいえるようなものがなくてはならないと感じます。

お蚕さんや織りに向き合っているなかで感じるのは、声なき声にどれだけ耳をかたむけることができるかということです。その声をききとるには、こちらも謙虚にならなければなりません。たとえば、これだけの細い糸を扱うには、自分の都合を優先して進めていても糸は絡まるばかりです。

今、開催している展覧会では、7粒の繭糸を1本にして織った作品を展示しています。これはもう重力はなく空中を漂うくらい軽い糸です。このような糸を扱うときは、もはや自己を優先していてはうまくいきません。織っているというよりも織ることをゆるしてもらっているという感覚です。


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―声なき声に耳をかたむけられる人とはどういう人なのでしょうか。



私たちが受けてきた教育は人間中心のものなので、自然からの声をききとることができなくなっていても仕方ないと思います。 たとえば、植物を育てると謙虚になっていきます。植物がうまく育たなかったとしても、自分のやり方にどこか問題があると気づき、変わる機会を与えてもらっているのではないでしょうか。自分の都合に合うものを求めるばかりでは、自分が変わるべきことに気づけないでしょう。 自分が気づき、変わることで、謙虚になり、声なき声がきこえてくるようになるのだと思います。
Good Job!センターのメンバーが養蚕にかかわるようすをみていると、お蚕さんの声なき声をきくために心を尽くして集中している姿がとても印象的です。

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Good Job!センター香芝での蚕の収繭のようす


―作品をつくるということはどのようなことですか?


私は作品に対して、自分がつくったという感覚はありません。織っているよりも織らせてもらっているという感じです。機からおろしたときには、どこかで自分のものではないとわかっているからこそ、織り上がった布を美しいと感じる。だから他の人にも共感してもらいたい。美しいと感じることにおいて、鑑賞者と自分は同列です。織っている自分は、他の人よりも織り上げたものを見る順番が少し早いだけだと思っています。

織っている時には「今」しかありません。今よこ糸を1本入れた部分が美しいかどうかは判断できますが、たとえ1cmでも先は想像することができません。1本1本の判断だけを積み重ねて織っていきます。でも、今この1本をいれることで、過去の意味が変わりもします。言い換えれば、未来はわからないけれど、過去の意味を変えることはできるのです。ここに置かれた色が輝くかどうかは、隣にくる色との関係性によって決まります。響き合う音のような、それぞれが生かされている関係のなかではじめて充分な色になるのです。すべては関係性にあるともいえます。

織りをはじめたころはまず、図案をつくり織っていましたが、それは作業でした。今は一瞬一瞬を積み重ねて織っていくことが楽しいのです。
こうして織られた布が生きづらさを感じる闇の中でひと筋の光となることを願っています。

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 インタビューの終了後、寺川さんに織り機と家の庭に植えられた桑の木をみせていただきました。生駒山の麓で桑の木を植え、お蚕さんを育て、この自然に守られながら一体となり、あの美しい織りが生まれてきていることを実感しました。Good Job!センターでもお蚕さんを育ていのちを身近に感じることが、メンバーやスタッフ、センターを訪問する人に大きな作用をもたらしています。私たちも、あらためて、ものづくりの根底にある愛や祈り、循環する自然と社会のかかわりを感じながら、ものづくりに取り組んでいきたいと思います。

2021年3月8日 生駒市の寺川真弓さんの自宅にて
聞き手:中島香織(一般財団法人たんぽぽの家)、森下静香(Good Job!センター香芝)

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