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【種植える日常】 不要不急のひとづきあい



不要不急をせまられた私たちの生活は、けずられて、けずられて、シャープになっていく。

病院は行くけど、美容室はいいか。
ゲームはいるけど、洋服はいいか。
お刺身は買うけど、ケーキは…?


いつも通りにできることが少なくなる中、それでもやりたいこと、やるべきことがじわじわと浮かび上がってくる。

我が家でも、外出する必要がなくなり、待ってました!とばかりに動くことをやめた私と対照的に、
母は、家の中にせっせとヨガマットをひいては、スマホの中の小さな先生に目を凝らしながら、二の腕を震わせている。

こうやって、今の自分にとって大切なことを選別していく調子で、
人間関係も、はっきりと線が引かれるようになった、と感じる。

人びとは今、いつも以上に一生懸命、人とのつながりを求めている。

「電話しよ」「zoom飲みやろうよ」

コロナがなかったらここまで連絡をとっていなかったのでは…と思うとなんとも皮肉な感じがするが、
こうして連絡をとるのは、簡単には会えない状況の中、別の方法でもコンタクトをとりたいと思う、ごく一部の限定された人だけだ。


いまは、教室でたまたま隣の席だから話す、あの、ゆるやかなつながりが、なくなった。


人との関係に区切りを感じることは、これがはじめてではない。
私はついこの間大学を卒業したばかりだけど、卒業式(もどき)では、「ああ、もうこの人と会うことはないだろうな…」と思う人が多く、ひとりひとりの姿を目に焼き付けるように、ガン見しながら歩いていた。

人と連絡を取るハードルが上がった今、連絡するか、しないか、その選別を色濃く感じる。

象徴的なのは、SNS上で行われる「リレー」だ。


「好きな○○を○人に回してください!」


中学のときに流行ったチェーンメールと同じものが、10年の時を経て自分の周りを飛び交っていることに、懐かしさとやるせなさを感じながら、
誰かの中で線引かれた自分と、これから誰かを線引くことに、何とも言えない窮屈さを感じる。

さらに、SNSが広がりきったこの時代、人の人間関係が嫌でも目に入ってくる。
Twitterのリプ合戦、インスタでの2ショット。
毎日そのやりとりが目に入り、知らぬ間に、友人の友人の名前まで覚えてしまうほどだ。

相手の人間関係が透ける中で、自分の位置づけがはっきりと見えてしまうことが、私にとっては、なんだか、刺激がつよくて、つかれるなあと思っていた。

先日、例にももれず高校時代の友人たちとzoom飲みをしていると、そのうちの一人が、また別の高校時代の友人と話す予定があるという。

彼女が話す予定の友人は、高校を卒業してから一度も連絡をとっていなかったけれど、
反射的に、私も話したい、と言っていた。
自分でも意外だった。

きっと私は、自分が人に引いた線、引かれた線を飛び越えたかったのだと思う。


いま、私は、ゆるやかなつながりを、求めている。

(相川由衣)