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差し出せ手のひら、きっかけが舞う

入学式を終え、桜真っ盛りの大学に繰り出すと、桜よりも幅を利かせて待っているものがあった。

たった一年しか歳が変わらない「先輩」と言われる人たちが、はけることを目的に撒いているビラというやつだ。入学式は同時に、新歓のゴングでもある。
どこにどうきっかけが広がっているかわからないから、「先輩」は無造作に勧誘する。僕は根っからの文化系だったわけだが、なぜかワンダーフォーゲル部の新歓ブースに連れて行かれ、山について熱弁された。今思えばこれもまた一興だ。

新歓というものは、今思えば新入生にとって一つの洗礼であり、一つの試練でもある。より広い世界を知ろうと思えば、どうしたってそこには行動力と身のこなしというものが求められるからだ。僕はエスカレーターで12年間ぬくぬくしてきてしまい、変な能力だけが育ってしまったので、行動力や身のこなしにおいては最底辺の人間だった。

新歓なのにラスボスのような気持ち。
僕はビラをもらうのも、無理やり勧誘されるのもなぜか憂鬱だった。
ただ今思う。あそこは無理にでも行動すべき時だったと。

僕の大学時代の後悔の一つは、この起点でしくじったことにある。
本当はもともと入ろうと思っていたサークルと、もう一つ兼サーをするつもりだった。だけど僕は巨大な波に怖気付いて、ほとんど行動をしなかった。
あそこで、いろいろな間口を作っておけば。どんなにいい環境でも、間口を複数持っておかないと、息がつまる時がある。高校までに学んだはずなのに、ここでも持ち前のシャイさが発揮された。

僕はこのエッセイでありふれた出来事しか言わないつもりだ。
それはほとんどの人が、ありふれた大学生活を送り、でもそこに意味や愛すべき何かを見出しているからだ。
僕は大学に入って、周りの人を見てそう思った。
だからこのエッセイが、何か高い理想を持っていたり、窮屈な日々を送っている人にとって、ありきたりを肯定できる「間口」になればいいと思っているのだ。

もしこれを見ている高校生がいたら、こう言おう。
「手のひらを差し出せ。花びらよりビラをつかめ」と。

でも縁というものがあるから不思議だ。僕の大好きなミュージシャンの先輩のLINEをなぜか持っていて、それが大学の新歓期以外考えられないのだ。
(恥ずかしいので本人には話していない。まだシャイが治っていないじゃないか!)
本当に大切にしたい、自分にとって必要な縁は必ずどこかで繋がるのだとも、最近思う。