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秋のスラッシャー映画特集「キャンディマン」「ハロウィン KILLS」「マリグナント 狂暴な悪夢」

月末更新/BLACK HOLE:新作映像作品レビュー 2021年11月

同一ジャンルの新作映画がやたら目につく時期というのがあるが自分にとってはこの一ヶ月がまさにそうだった。そのジャンルとはずばりスラッシャー映画である。十月中旬からの一ヶ月間で立て続けに三本もの新作が封切された。その全てが異なるコンセプトを持ちつついずれも大傑作とあれば、もうまとめて紹介するしかないだろう。ホラー映画ファンも今まで見たことなかった人も、この記事をきっかけにいずれかの作品を見に行ってくれれば幸甚である。

最初に紹介するのは『キャンディマン』だ。92年公開作品の続編(といっても原作を見なくてもストーリーは理解できる)で、鏡の前で五度名前を唱えた者を殺しに来るという「キャンディマン」の都市伝説とそれに取り憑かれた芸術家の末路を描く。「その名を5回唱えると死ぬ」というキャッチが示す通り王道のミーム感染型オカルトホラーだが、本作の魅力は何といってもその優れた現代性だろう。

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舞台となるカブリーニ=グリーンはシカゴに実在する土地である。かつては貧困と黒人差別の蔓延する公営住宅地区だったが、2011年に住宅が解体されて以降再開発が進み、現在では富裕層が肩を寄せ合う高級住宅街と化している。本作の主人公もそんなハイソサイエティな空気の一端を担う気鋭の芸術家だ。黒人という自らのアイデンティティを前面に押し出す創作姿勢が何ともアメリカらしい。だからこそ行き詰まった彼はカブリーニ=グリーンに根付く陰惨な都市伝説、その背後に見え隠れする差別と暴力の歴史に惹かれてしまう。そうして忘却されていた「キャンディマン」が復活する。

ミーム感染型ホラーの定番は忘却による封じ込め作戦だ。人は知らないものを恐れることはできない。ゆえに次の世代がそれを知ってしまわないよう大人や老人たちは口をつぐんで情報の経路を遮断する。だが歴史を完全に抹殺することはできない。夢からビデオから図書館から、一度抹殺されかけた歴史は怨嗟を倍にして復活する。『キャンディマン』のユニークさはこの「歴史」が植民地時代から連綿と続く「白人による黒人差別」と直結していることだろう。奴隷所有者の拷問、人種差別暴動、警官のリンチ……キャンディマンとは暴力の歴史そのものだ。住宅を解体して舗装用アスファルトで埋め立てたくらいでそれを消し去ることはできない。否、消し去ろうとするほどに暴力は反作用的に立ち上がり、それを起点に連鎖していく。そして、このプロセス全体がキャンディマンだとも言える。

BLMホラーとでも言えばいいのだろうか。昨今の時流に棹さす一作であることは間違いない。だが単純な「リベラル」礼賛からもやはり程遠い。不可視化された経済格差、街談巷説の不確かさ、アートワールドの傲慢さ。ストーリーはいくつものテーマを孕んで重層的に膨らんでいく。何よりキャンディマンというキャラの理解不能性が画一的な「正しい」レッテルを拒絶するのだ。色々と言を連ねてしまったが、キャンディマンは無差別で自動的で無敵で……つまるところ最高に魅力的な殺人鬼に他ならない。


『キャンディマン』と同じように過去作の続編的な立ち位置ながら異なるアプローチを取った傑作が『ハロウィン KILLS』である。ハロウィンは複数の続編やリメイク版を持つ人気シリーズ。本作は初代(78年公開)の直接の続編となるシリーズ第二作(一作目は19年に日本公開)で、初代と同じ俳優を起用したまさに「四十年後の続編」となっている(細部は微妙に異なるが)。

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『キャンディマン』が過去作を大胆に加工してスラッシャー映画のフォーマットに現代的テーマを搭載した作品だとすれば、こちらはまさにジャンルの王道を爆進する作品と言える。

『ハロウィン』シリーズのマイケル・マイヤーズ=ブギーマンといえばフレディやジェイソンと並ぶジャンルのアイコン的なキャラで、これら80年代に生まれた数多のスラッシャー達の直接の祖先だ。そんな「本家」の面目躍如と言うべきか、本作のブギーマンはとにかく殺して殺して殺しまくる。前作のラストから直接繋がる序盤で自身を救出しに来てくれた消防団を皆殺しにしてから終盤までアクセルベタ踏みだ。殴り殺し刺し殺し捻り殺し……シリーズどころかジャンル内でも最多得点ではなかろうかという殺人の大振る舞い。あまりの命の軽さに終盤になると何だか笑えてくる。しかし、このシンプルな大殺戮こそがまさにスラッシャー映画の魅力を体現しているのではないかとも思えるのだ。

マスクを被った怪力の大男が無言で忍び寄って殺す。……スラッシャー映画の根本原理とはこれに尽きるのではないだろうか。複雑なプロットも奇抜なキャラも卓越したテーマも必要ない。ただ「殺戮」だけがあれば良い。それだけで充分恐ろしく、そして面白い。そう主張するかのようにブギーマンは淡々と殺す。大量に殺すが奇を衒った殺し方はしない。職人技である。燻し銀の殺人である。そのシンプルさが、どこか80年代を思わせるハドンフィールドの野暮ったい住宅街とよくマッチしている。やはり本作は根本的にクラシカルなのだ。

無論、『ハロウィン KILLS 』はただ無意味に人が死ぬだけの映画ではない。ブギーマンが巻き起こす殺戮の旋風。それに巻き込まれ千々に切り飛ばされる人々の叫びが螺旋のようにドラマを描く。ブギーマンとは自然現象だ。台風の目のように破壊を振りまく彼の周りに幾つものドラマが生起し、それが翻ってブギーマンという人格を彫刻する。その点で本作は恐怖に囚われた人間心理の良質な記述でもある。


さて、最後に紹介するのは『マリグナント 狂暴な悪夢』だ。前二作と異なり完全新作となる本作の監督は『ソウ』や『インシディアス』で知られるジェームズ・ワン。封切早々熱狂的な絶賛でもって受け入れられたこの作品は、スラッシャー映画の、否、ホラー映画の歴史を次のステージへ進めるかもしれないほどの大傑作だ。

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本作は十一月中旬に公開されたばかりの新作である。ゆえにまだ見ていない人も多いと考えて内容への詳しい言及は控えるが、全く新しいタイプの殺人鬼が誕生したというのは間違いないと思う。作品の前半は『インシディアス』を想起させるクラシカルなオカルトホラーだ。幽霊屋敷ものやJホラーの手法も取り入れた画面はまさに王道という感じで、スピーディーな展開もあって飽きさせない……が、瞠目すべきは真実が明かされる後半以降である。
「やってくれたな、ジェームズ・ワン!」と、映画館であることも忘れて思わず前のめりになってしまうような衝撃だった。オカルトホラーとかスラッシャーものとか、そういうカテゴリーを悠々と踏み越えてまったく新しい何かを作ってしまう飛び抜けたオリジナリティ。しかし、同時にその全ての長所を併せ持つようでもある。ワンの超絶技巧が炸裂する変態定期な殺陣シーン(その新規性はストーリー以上である)もあって終始興奮しっぱなしだった。恐らく見ていないホラー映画ファンはもういないだろうが、ホラー映画にあまり縁のない人にも是非見てほしい。


人が文明を作るところには必ず殺人鬼がいる。彼らは群集心理の生む闇であり、文明の光と表裏一体の影そのものだ。人の世が活気で満ちれば殺人鬼たちが蠢く。現在、コロナがある程度の落ち着きを見せて来たこともあり、街中には人影が戻って来ている。レイトショーを見に行けば会社員や学生が真夜中でも大騒ぎしている。だからこそ殺人鬼たちはスクリーンに集ったのだろう。酔っ払って騒ぐ学生など格好の餌食だ。

見に行くなら是非レイトショーを使って欲しい。帰り道の闇が少しだけ深く見える。あなたの背後にはいつだって殺人鬼が潜んでいる。

(グーテン=モルガン)

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