見出し画像

数学も英語も赤点の私が東大を目指した理由(その1)

こんにちは。予備校講師・受験コンサルタントのシンノです。

大学入試では、志望校が決まらないという生徒さんは決して少なくありません。勉強したい学問や、将来の進路が不明確な場合は、どうやって大学を決めればいいか分からないのが普通だと思います。そんな志望校を決める一つのヒントとして、今日は「自分語り」をしてみたいと思います。授業で断片的に話しているところもありますが、ここまでまとめて話すのは初めてかもしれません。

僕が東大を目指すことにしたのは、高3の7月21日。そして下の成績表は、直近のマーク模試の数英の成績。これから話すのは、どうしてそんなに遅い時期に、こんな成績で、挑戦を始めたかのお話しです。

今の僕を知っている人には想像がつかないそうですが、私、中高では完全な劣等生でした。中学受験をして、当時は毎年30~40人くらいの東大合格をコンスタントに出すそれなりの進学校の男子校に入学したんですが、我が母校は自由な学校だったので、「勉強しろ」とはあまり言われないし、補習もほとんどない。もともと地道な努力とか学習習慣などというものがまったくない人間でしたが、学校の成績が急降下した一番の原因は「好き嫌いが激しい」から。好きな授業は聞くが、嫌いな先生の授業は聞かない、というのがとにかくはっきりしていました。それで、中2くらいになると、すでに数学も英語も定期テストで50点を超えることがほとんどない状態。ところが、ここは中高一貫の悪いところで、高校には自動的に進級できてしまうわけですね。高1では、数学は基礎クラスという、4段階で最底辺のクラスだったので一応点は取れましたが、英語は完全に赤点。学内模試だと320人中295番くらいで、お情けで進級できている、というレベルだったのです。これは本当の話ですが、√2+√3=√5だと高1まではずっと思っていたし、I am play tennis.と平気で書いているような生徒だったのです。

それでも、一応それなりの進学校だったので、大学入試に見据えて志望校を設定するようにだんだん学校からも言われてくるわけですね。当時の僕は日本史が得意教科で、将来は母校に戻って日本史の先生になりたいと漠然と思っていました。それで、高1のときに個人面談で設定した志望校は、「静岡大学」と「國學院大學」です。なんでこの2つかと言うと、当時、静岡大学の小和田哲男教授という歴史学者が執筆した本をよく読んでいたので、何となくこの人に習いたいと思っていたのと、「日本史で有名な私大はどこですか?」と担任に聞いたら「國學院大学」と教えてもらったからです。

いいですか、決して國學院大學を愚弄するつもりはありません。ただ、正直なところ、入試難易度という視点で言えば難度が高い大学ではありません。東大に30~40人が合格していて、早稲田・慶應にも200人くらい受かってるようなそれなりの進学校の担任が、高1の生徒に勧める大学が國學院大學、ということがいかに普通ではない状況であるかわかりますか。頑張れば國學院大學くらいは受かるんじゃない?、というのが、当時の僕の成績だったわけです。

ところが厄介なことに、それなりの進学校の男子校に通っている生徒というのはプライドだけは無駄に高いのです。どんな成績であろうと、音大とか美大とか医薬系を目指さないなら、最初から志望校が早慶より下という生徒はほとんどいないのが、それなりの進学校の雰囲気なのです。それで、みんながだんだんと志望校を公にしてくる高2くらいになると、僕もプライドが邪魔をして、とりあえず早慶くらいには行きたい、と思うようになるわけです。それなりの進学校の人にはよくわかる状況だと思うんだけど、それ以外の人にはヒドイ言葉だと思われるでしょうね。予備校教師という商売を始めてみると、この「とりあえず早慶くらいには行きたい」という言葉が、どれだけ世間知らずな暴言かということがよくわかるのですが(「とりあえずGMARCH」も相当な暴言)、プライドだけは高いそれなりの進学校の男子校の生徒というのはこの辺がまったくわかっていないんですよ。

また、高2から志望学部が変わりました。相変わらず得意教科は日本史しかなかったのですが、高2で政治経済という教科に触れ、政治学を勉強したいと思うようになりました。それで考えた志望校が、慶應義塾大学総合政策学部。どうして総合政策かというと、単純に政治学部より政策学の方が面白そうだったのと(当時は慶應SFCの人気絶頂期だった)、テレビのコメンテーターで格好良かった竹中平蔵に憧れ、彼に習いたいと思ったからです(これは最大級の黒歴史。まさか、あんな人だったとは…)。

ところが、ここで大問題が発生するわけです。総合政策学部の受験科目は、英語と小論文か、英語と数学と小論文の2択。私の唯一の得意教科である日本史が使えないばかりか、次点と言える国語さえ使えません。高2の進級時点では静岡大学の受験を考えて数学も受講はしていましたが、もう気分は完全に私大文系。数学を受験で使うという発想は全くありません。それで、英語をなんとかしなくちゃいけない、という思いだけは強くなっていました。

やる気のない我が母校でも、高2の1月になると初めて外部模試を校内受験します。そのとき、中学受験以来初めてついた偏差値が、英語で45。慶應までその差、約25。さすがにどうにかしようと思って、3月、河合塾の春期講習に通うことにします。そして、この春期講習で出会った先生こそ、芦川進一先生だったのです。(その2に続く…)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?