日常のつらなりが人生となって、人生のあつまりが歴史になるのなら


私の読書は、ひとりの作家に出会ったらその作品をできるだけ全て読もうとします。

『葭の髄から』と題のうたれた晩年の随筆から私の阿川弘之は始まり、海軍三部作と呼ばれる『山本五十六』『米内光政』『井上成美』、そのほかも随筆を主に読んできています。


小説である『雲の墓標』は、太平洋戦争末期が舞台です。
作者と同じ立場である海軍予備学生たちが特攻隊員に選ばれていく、そのなかのひとりが書いた日記の形をとっています。

大学で万葉を学んでいた主人公のまなざしがとらえる戦争末期の海軍生活、家族や恩師に向ける思い、市井の人々の暮らしや自然のありさまは、朴訥でありながらも叙情的で、死に向かわねばならない現実に対する彼らの心のありのままが感じられます。


作中の彼らから二期前に、作者の阿川弘之は海軍予備学生として海軍に入隊し、船に乗れる可能性が高いこと(阿川弘之は乗り物好き)と、通信暗号関連が得意だったことから通信を選び、対中国諜報班に入ります。

作者と同期の海軍予備学生は500名のうち2割が亡くなったと『日本海軍に捧ぐ』の「私の中の予備学生」にあります。
「私の中の予備学生」は阿川弘之がいた期の海軍予備学生の話が主なので、『雲の墓標』とは様子が違いますが、環境は違えど、どちらも海軍予備学生の”日常”が描かれています。


『雲の墓標』解説に安岡章太郎が記しています。

 実際、戦争ないし軍隊生活の体験というのは、あまりに広くて深い。阿川は僕と同年の大正九年生れだが、仮に満州事変から数えはじめると、ものごころついて以来戦争の連続で、僕らの中から「戦争」を除くと、あとには何にものこらないくらいだ。
けれども、戦争の中に日常があったということは、戦争と日常とが同じものだったということにはならない。どんなになじんでいるように見えても、戦争や、軍隊や、原子バクダンなどの話は、僕らのなかに不消化のままにのこされている。それ自体で完結してしまって、他の何ものとも結びつかないのである。


『雲の墓標』読了後、私はふと、”日常系”という言葉を思い出しました。
これについてはいろんなことを考えるのですが、うまく言葉にできません。

過去と現在を比べて、時代の良し悪しを決めるつもりはありません。
日常とはなにか、人が生きて死ぬとはなにかを考えるのです。

大正九年は私の母方の祖父が生まれた年です。



健全な食欲と健全な性欲とをそなえた健康な肉体、それで豊富な精神活動をして、次の時代へよき子孫となにがしかの精神的な遺産をのこす、これが人間として一番のぞましい生き方だと思う

日常の連なりからなるこの人生の中で、私には何か実らせることができるでしょうか。


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29歳です。読んだ本や観た映画や舞台などの感想を書いています。
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