ニガテ=嫌い ではない

私は、小さな頃から粘土工作がニガテでした。あと、折り紙とか、手芸とか。立体物になる制作をニガテとしていました。さほどやっていないのに、「あーこれは向いてない!」と諦めていました。
でも、好きなのです。いや、好きになったのです。どうやらある条件を満たすと「好き」と「できる」の神が降ってくるのです。
そしてそれは、「できる」と思うより前に「やる」と決める方が早いこととと、材料となる部品がたった一つ目の前にあることに助けられているようです。

あれは高校3年生の夏、学園祭の出店に焼きとうもろこし屋をすることに決まった時。祭り準備で半日授業の日、放課後にたまたま捨てられる前の直径10cm長さ1mほどの紙管を目にしてひらめきました。私は、一緒にいたクラスメイトを「暇なら手伝って」と誘って、新聞紙をぐしゃぐしゃにして紙管に巻きつけて太らせ(これはとうもろこしの芯になる)、げんこつサイズに丸めたこれまた新聞紙に、黄色い画用紙を包んでもらい(これは粒になる)、ガムテープをクルンと丸めて粒につけ芯にぎゅうぎゅうにしてくっつけていきます。粒の大きさは端に行けば行くほど小さくした気もします。
で、テーブルに寄りかからせるために後ろ半分には粒をつけなかったかな?
ほんで、黄色い画用紙はどうやって調達したんだっけかな?
葉っぱは作ったっけ?いや、「焼き」とうもろこしだから、粒のみの裸だわ。
4人くらい誘ったけど、最初から最後まで他のクラスメイトも誰一人文句言わず、終始付き合ってくれたな〜。ん?多分?自信ないけど。

なんちゅー適当な記憶なんだ、きっと教師や親に結構迷惑かけたかもしれない…と思うけれど、作っている時、完成した時、それをお店の前に置いた時、通りすがりに面白がってもらえた時、私の勝手気ままな提案をずっとずーーっと一緒にやってくれたみんなの笑顔が絶えなかったことが記憶にある。映像だけではない、気持ちの記憶。ワクワクして、不安も心配もなく何かが目に見えて進んでいく、体と心が楽しがっている記憶。作っていた廊下のロッカーに立てかけながら、みんなとあーだこーだ言いながら。笑顔が今も鮮明に思い出せる。
そして、その大きな「焼きとうもろこし」は、最終日の後夜祭のキャンプファイヤーで本当の焼きとうもろこしになって煤となりました。
お後がよろしいようで。

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