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ジャンケンを克服したいwith『ファイト・クラブ』

 私はその場に「勝負」の香りが漂った途端、トンズラしたくなる。どうかその勝負に私を巻き込まないでくれ…と戦ってもいないうちから白旗を掲げ戦う意思が無いアピールをし、それでも挑まれたら一応臨むものの、勝ちを引き寄せる気概が無いのでほぼ負ける。

 戦いたくない理由は簡単、怖いし面倒臭いのである。

 解っている、そんな悠長なことを言ってられないような状況が人生には訪れるかもしれないと。守るべきもののために戦わなければいけない場面に遭遇するかもしれないと。漢には譲れぬ想いがある(私は女だが)。

 それでも怖いし、面倒臭いのである。

 仕事やライフイベントにおいて重要な決断を要する正念場、カネを賭けるギャンブル、試合や試験、主に子供の頃参加することとなる遊び…など本気のものからお遊戯程度のものまで様々な勝負があるが、私は試験以外の勝負を大体面倒臭いと思ってしまう。試験は「対戦相手」が自分なので平気だった。

 日常生活の中でも、例えば好きな人がいたとして、他に同じ人を好きと主張する人が現れたら張り合うことなく譲る。例えばスーパーのレジで割り込まれても腹は立たない。
 吹っ掛けることで新たに問題が発生する可能性を想像すると辟易としてしまう。
 ちなみにジャンケンもちょっと苦手。ジャンケンが苦手な人っている?と自分でも思うが、ジャンケンが必要な状況では背中が固まり、始まる前から「私負けで良いよ」と白旗を掲げる。ジャンケンを楽しもうとしている周りは興醒めである。

 負けず嫌いなのはあると思う。その証拠に確実に勝てると分かっている時はそこまで嫌じゃないし、恐怖も無い。
 小さな子供から挑まれる腕相撲なんかがそう。だがその場合でもちょっと面倒臭いことに変わりはないので戦わずして相手に勝ちを譲りたい。残念な大人である。

 勝負によって勝ちと負けに二分されたくないのだ。大抵負け側だが。
 外野でヘラヘラしていたい。

 言わずもがな、競争社会から逸脱しているこの気質は社会人として生きる上で致命的な欠点である。当然の如く学生時代に就活はほぼ出来なかった(ありがたいことに現在はご縁があり働かせて頂いているものの、万が一転職などしようものならBAD END必至である)。社会人としてというより生き物として欠点であることは明白で、仮に野性に生まれていたなら真っ先に野垂れ死ぬ個体だと常々思っている。
「平和主義ってことじゃない?」と優しくフォローしてくれる人もいるけど、勝負を避けたい理由が「怖い&面倒臭い」なので、平和主義とはちょっと違う気もする。
 余談ですが、失敗や負けを恐れて挑戦や変化を極端に恐れるこの気質は、アダルトチルドレンの典型っぽいなあと感じています。


 思えば昔から勝負事が苦手だった。人数が増えるほどその傾向は強く、マリオカートの4人プレイは軽い地獄だった。許されるのなら1人で延々とタイムアタックしたい。
 トランプでも苦手な遊びが多く、「大富豪」で貧民になった時は普通に泣いていた。元から遊びたくないと主張していた遊びに巻き込まれた末に貧民になり、晴れて大富豪となった方々は泣く私を見て愉悦に浸る。シンプルに嫌な気持ちである。

 そんな私の勝負事苦手度MAXの遊び二大巨頭が、鬼ごっことドッジボールだった。自らそういった身体を動かす遊びをする子供ではなかったが、避けられない場面はある。学校での体育やレクリエーションゲームだ。
「今日6時間目にドッジか…」と思うと過敏性腸症候群の私は朝からお腹がギュルギュルと鳴り、他の授業中もずっと上の空、せっかくの楽しい給食中でも「急に校庭に犬とか入って来てドッジ中止になってくれないかな…」と祈るなど、ずっと6時間目のドッジボールのことを考えていた。
 しかし祈りも虚しく、ドッジボール大会は開催される。ちなみに犬はごく稀に侵入して来た(郊外&時代?)。

 マリオカートやトランプなら運次第で勝てる時もあったが、鬼ごっことドッジボールにおいて私の勝率はゼロだった。そう運命付けられている。絶望的に足が遅い者に約束された未来。

 ゲームが始まるととりあえず頑張って逃げる。
「鬼」もボールも怖いから逃げる。
 だが逃げれば更に恐怖が増す。運良く逃げ続けられた時には「これは神に与えられた一瞬の余命だからこの後死ぬ」と、喜びとは言えぬ複雑な感情が芽生える。

 鬼ごっこで「鬼」担当の人は戦場の中を笑顔で追い掛けて来る。逃げ惑う人々を笑いながら追い掛ける様子はさながらクレイジーである。
 更に周りにいる他の逃げる人々も「鬼こっちくんな!アイツ狙え!今のうちに逃げよう!」と残酷の極みで標的になっている人を助ける気など皆無、保身のために逃げる。いやそういうルールの遊びなんだけど。

 ドッジボールは、まあまあ重いボールが吹っ飛んで来ることは物理的に怖いし、当たると普通に痛い。最中はアドレナリンのお陰で気付かないが、後々「イッテェ…」となる。こちらも鬼ごっこ同様、投げる者は皆笑顔か目がイッてしまっている。
 枠の外にいる外野はまるで映画『ファイト・クラブ』で地下室に集まる男達のように、血走った眼でボールの行方を見守る。拳を握り息を呑み、ボールが当たりそうなら盛り上がり、かわせばヒュー!と口笛なんか鳴らす。敵チームの内野を仕留められそうものなら「当たれ!当たれ!」と興奮気味に唾を飛ばす。内野も外野も狂気の沙汰である。『ファイト・クラブ』は面白いです。

 そう。私は狂気を感じるのだ。

 単なる遊びとは言え「弱者を追いやる強者の顔」は狂気そのもの。あの顔がとても怖い。
 獣を狩るハンターのような。一匹残らず仕留めてやると言わんばかりの。


 そして恐怖が限界を迎えた瞬間――「鬼」による捕獲やドッジボールのボールを当てられた瞬間――、「アウト」という死を迎える。

 それは戦場からの退場、延いては恐怖からの解放を意味する。
 このイカれた地獄は終わったんだ。
 早くこうなりたかった…。
 安堵から来る高揚感で視界は白くぼやけ、外野の声は遠くに聞こえる。心身の緊張が解け身体中のあらゆる血管が一気に緩むのか、ちょっと涙も出る。何なら漏らしているかもしれない。昇天を迎えるのである。


 そこからはもう余裕の顔でヘラヘラしている。さっきまでの恐怖は何だったんだ?というくらい、心に安寧が訪れる。
 なんだ、初めからこうしていれば良かったんだ。さっさと諦めてアウトになっておけばもっと早くヘラヘラ出来たのだ。
 逃げるから負けになる、逃げ続けるから怖い。
 それなら勝負から降りれば良い。


 だけど…。
 勝負事が嫌いなら、何故映画作品に描かれる勝負は固唾を飲んで見守れるのだろう。何故外野としてヘラヘラするのではなく、手に汗握りドキドキするのだろう。何故『ファイト・クラブ』で殴り合うブラッド・ピットに興奮するのだろう。カッコイイからか?カッコイイからもかなりある。

 私は、本当は勝負に興じたいのではないか?
 一世一代を賭けた大勝負に出たい欲望があるのではないか?
 恐怖と面倒臭さに打ち克とうとする自分がいるのではないか?
 狂気に身を投じ、全身でアドレナリンを感じたいのではないか?


 何も、全ての勝負に参加しなくても良いのだ。明日いきなり何かのトーナメント戦に参加しなきゃいけない訳じゃない。

 千里の道も一歩から。『ファイト・クラブ』は一日にして成らず。
 まずはジャンケンから逃げないことにしようか。そういえば今度ボーリングに誘われたんだった。面倒臭くて丁重にお断りしたけど、行ってみようかな。

 このまま恐怖と面倒臭さを盾にする限り、私はブラッド・ピットになれない。彼は言っていた。「痛みから逃げるな、人生最高の瞬間を味わえ」と。せめてジャンケンくらい普通に出来るようになりたい。

 闘志を燃やす地下室の男達が、ジャンケン中に私の背中を押してくれる…気がする。

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