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好きな場所から引っ越す。心を置いて行く。

私は引っ越しが多い子供時代だった。
家庭の経済的事情からである。

以前記事にも書いたけれど、常に引っ越す可能性を考慮して家の中には段ボール箱が山積みで置かれていた。子供だった私も引っ越すことに慣れてしまい、思い出の品や雑貨、ぬいぐるみの類は全て捨てて、ある程度必要な物だけを厳選して部屋に置くようになった。卒アルなんかも引越しの際重いので捨てた。

そんな訳で、引っ越しを「晴れ晴れとした気持ちで新生活を迎えるための儀式」と感じたことが無かった。引っ越しは常に誰かから逃げる手段だったからだ。引っ越せばしばらくは安泰だが、どうせまた誰かに追われるから引っ越す。終わりが無かった。

意識の深くに刷り込まれたその嫌悪感は、大人になってからも続くことになる。


子供時代とは事情が変わり「晴れ晴れとした気持ちで新生活を迎えるための儀式」となったはずの今でも、引っ越すとなれば誰かから逃げているような気持ちになりむちゃくちゃ嫌になる。誰からも逃げる必要なんか無い=引っ越す必要も無い、という等式が脳内に浮かび上がる。

私の頭の中の不穏な等式なんて周りは知ったこっちゃないので、現実では着々と引っ越しに向けて様々な手続きが進む。まさに今現在、その真っ只中である。今回は三度目の「健全な」引っ越しなんだけど、とにかく引っ越したくない気持ちでいっぱいである。今の家を好き過ぎるというのもある。

じゃあ無理して引っ越すなという感じだが、パートナーの事情(誰かから逃げたりするのではなく、良い意味で取るに足らないこと)を優先すべきと思っているので引っ越すことにする。


引っ越しがほぼ確定になった先月某日以降、急に日常の風景が失われる現実を勿体無く思い、なんてことない瞬間までスマホで写真撮影するようになった。

自分が毎日どんなキッチンで料理していて、どんなお風呂やトイレを使っていて、どんな場所で眠っていたのか。どんな床でどんな壁でどんな階段で、窓からはどんな景色が見えていたのか。歩く時はどんな音がしていたのか。
吹き抜けと各部屋にある大きな窓のおかげでどの部屋も大変明るく、青空が見渡せた。晴れた日の夜には天窓から月と星が見えた。廊下窓から見える通りの向こうの家の庭には、季節の移ろいと共に葉の色が変わる大きな木が植っていた。割と雪が降る地域なので、冬には人の胸ほどある高さの雪だるまをデッキで作った。そのデッキの防護目的で春先にウッドガードを塗った。梅雨前になると大量に屋内に侵入するナメクジとハサミムシ、そこそこ出現するG、生命力が桁外れなごんぶとな雑草、湿気がこもり過ぎて靴にカビが生える下駄箱…虫と湿度オンパレードの野生の王国でもあった。秋からはサザンカが咲く。中庭に迷い込んだメジロ二匹、この間中庭で亡くなっていた大きめの鳥。

全てを覚えておきたいけれど、必ずどんどん忘れる。…やっぱりGだけは忘れても良い。
新たな情報が入るにつれそれまでの記憶の濃度は薄まる。濃いめに作ったはずのカルピスがいつの間にか溶けた氷のせいでほぼ水のうすうす味になっているのと同じで、ほんのりカルピスフレーバーウォーターくらいになる。

家だけじゃない。
この街のこともどんどん忘れるだろう。スーパーに行くまでの松ぼっくりロード、大きな桜の木、たくさんDIYしている素敵な家、自然と調和して鳥達の喫茶店のようだった素敵な家、金木犀の道、好きなケーキ屋さん、長い坂道を見下ろした先にある大きな空き地、歩いて行った牧場、視界がほぼ消える濃霧、雨上がり空にかかるダブルレインボー…、大雨の多い街だった。
全部が過去になり、そのうちうすうすカルピスフレーバーウォーターになる。

忘れることは怖くて悲しい。まるでこの街で生きていた自分の事実ごと消えてしまうようだ。


でも、こうしてセンチメンタルになっているということは、私がこの街を好きになっている証拠だと気付いた。子供時代の引っ越しとは異質なのだ。「行き着いた安全地帯(仮)」とは異なり、安全が保障された「心休まる場所」なのだ。

ちなみに、この街はかつて一度住んだことがある。はじめはその時の嫌な記憶しか無かったけど、今回しばらく住んだことで良い記憶が生まれた。好きになれて良かったな。好きになれたこの街に私は少しの心を置いて行きたい。好きだったことを忘れたくないと思う。例えうすうすカルピスフレーバーウォーターでも、カルピスの香りは確かに残っているのである。


引っ越しは本来、ワクワクするものだろう。
知らない土地、知らない店、知らない公園…。そこで目にするものを素直な好奇心のまま自分の中に入れていく。そこでは今の街とは違う風が吹き、違う匂いがするはずだ。


順調に行けば、秋までには引っ越すことになる。

それまで私は毎朝変わらず、中庭の植物におはようございますと言いながらお白湯を飲む。朝の至福のひとときだ。
植物達、来るその日まで、同居人としてよろしくお願いします。


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