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璦憑姫と渦蛇辜 7章「深海兇徒」①

「あれが来るよ」
水鏡を覗き見て女は言った。低い声が水紋のように屋敷の暗がりへ広がっていった。
浮遊しながら発光するクラゲの一群が、何かを察したのか沈黙した。
その水鏡は二人の人間が両腕を繋いでできる円ほどの大きさがあり、水盆を支える長い脚がついていた。
立ったままの姿勢で水鏡の表面を見ることができたが、それの前に長椅子を置いて横になって覗くのが女の常であった。長椅子に半身を起こし、女は長い髪を苛立ったように掻き上げた。その拍子に肩掛けの薄絹が床に滑り落ちた。
「あれとは、何でございましょう」
侍女がそれを拾い椅子の背に掛け直しながら聞いた。
「忌まわしい、あの化け物の片割れぞ」
その言葉に侍女の滑らかな動きが静止した。
「……生きて、おられた」
「生きていたとも、妾の顔を奪って、のうのうとな」
女の鋭い一瞥が侍女に流れた。漆黒の深い瞳に昏い火が点ってる。艶めく肌から香気がこぼれ、薄暗い部屋の中にあっても魅入られる様な妖しげな美貌は煌々と眩しい程だ。
「乙様はたいへん美しくていらっしゃいます」
侍女は下がってこうべを垂れた。
「だが口惜しいわ。……もっと、もっと血を持って参れ」
紅をさした唇が震えている。
「仰せのままに」と侍女は部屋を後にした。
小波立つ水鏡には、深い皺を刻んだ髪の抜けた老婆の姿が映っていた。



つづく





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 両親を探し山越えで港街まで向かうタマヨリと、山育ちの少年鴉雀の出会い。


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