ニュールックの部分的考察


1947年、ヨーロッパは長く厳しい冬を迎え各国は第二次世界大戦の瓦礫の中から立ち上がろうと奮闘していた。戦争は終わったものの経済の低迷と物資の不足は深刻を極める。

そんな中敢えてディオールは繊維王ブサックと出会い、自分のメゾンを設立するのを皮切れに、「ニュールック」といわれるコレクションを発表した。彼の狙いは第一次世界大戦によって生活が一変するより前の古き良き時代の女性像を復活させることであった。

ニュールックを象徴する最も有名なコスチュームは「バースーツ」である。バースーツは女性を大輪の花のように優雅なシルエットに変えた。しかしこのスタイルは以前の直線的モダニズムの流れとは一線を画している。

コロールライン(別名8ライン)1947SS


またこれらのドレスを作るには高級な素材が大量に必要であった。
それは人々が直面している困窮生活とは別の古き良き世界を表現していたのである。そのためニュールックに対する反応は好意的なものばかりではなかったが、ニュールックの流行はヨーロッパやアメリカにとどまらず世界中に広がっていったのである。

ディオールは最初のコレクションも過去の伝統へのオマージュとなっていた(コルセットをつけた砂時計型の身体)。
人々は困窮していながらも以前のようなエレガンスの再来を待ち望んでいたのだ。またニュールックの大きな功績はパリをファッションの首都へと復帰させたことである。

それ以前のパリモードは危機的な状況にあったため、そこに鮮やかに登場したのがディオールだったと言える。
ファッション界の寵児となったディオールはすぐにアメリカ市場の重要性に気づいた。アメリカの中産階級が一大勢力となった消費社会の活況を目の当たりにしたディオールは、アメリカ人の大会や気候に合わせて修正されたラインを立ち上げ、アメリカ市場へと本格的に進出していくのだ。

そしてディオールは名声を確立させるにつれて、ブランドビジネスの成功、そしてファッションデザインのライセンス供与にも取り組んだその結果、階層化されたブランド世界が編成され、購買者層が広がり、ファッションの民主化と大衆化を実現させた。

つまり富める人にも貧しい人にもファッションを提供できるようになったということだ。

ニュールックはファッションの戦後体制の出発点となったという意味でも新しかったのである。そしてディオールのデザインは過去の伝統をただ反復しただけではなく、女性らしい曲線を強調しながらも強いモダニズムを感じさせるデザインでもあった。


ディオールファッションの大きな特徴は「ライン」の提案である。

「ライン」の重要な役割は「最新の流行」をわかりやすく伝えることにあった。
またラインの提案はマーケティング戦略の一環でもあり、社会に向けてトレンドを発信して行くことをいかに重視していたかが分かる。そしてラインを強調したデザインは女性の身体をひとつの抽象的なシルエットに構築するのだ。

最も、ディオールのフォルムは19世紀の歴史衣装はよりも20世紀の抽象美術との類似を感じさせるものがあり、50年代になるとディオールは抽象的なラインへとさらに近づいていく。54年のHラインではついに身体の曲線をほとんどおさえたストレートなシルエットを提案している。

さらに戦後のアメリカでは好景気に沸き、本格的な大衆消費社会が到来した。
50年代後半から60年代前半にかけて大衆消費社会が爛熟したた時代を「ポピュラックス」の時代と呼び、表面的には豪華で立派だが、その内容はむしろ薄っぺらであり、統一感のある美意識が欠落しているのがポピュラックスの特徴であった。そんな中でディオールが復活させたパリモードは新しい女性ファッションを求めていたアメリカのファッション産業界にとって大きな福音となった。

それは実用的なアメリカンファッションと華やかなパリモードを混合させたものといえる。

いうまでもないが元来ディオールがめざしていたものはポピュラックスではない。
彼はオートクチュールの優れな技術を用いて、シルエットを現代的に再構築し、エレガンスを表現したが、それは大衆化や過剰化と交わることのない洗練された美意識として追求することであった。パリモードの大衆化は以前の風潮はなくなり、服装のグローバルな均質化をもたらし、ファッション業界と一般大衆により作り出される時代になったのだ。

オートクチュールと既製服、上流階級と一般大衆、エレガンスとポピュラックス、中小企業と大企業、さまざまなファッションの橋渡しをすることで、ディオールは繋がりを持たせ、20世紀ファッションに一つの道筋をつけたのである。


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