見出し画像

ラウドとノイズ

1章:ラウドの侵略

これは最近得た考えではあるが、含蓄に富むし、何より私達のバンドの為にもここで一度表明しておきたい。「ラウド」と「ノイズ」。この二つはよく混同されがちな概念である。これは「ラウド」な音楽(私はあえてロックに絞って話を進める)に親しみを感じている者には少しわかりにくいかもしれない。ラウドとはその名の通り大きな音である。彼らは9Vと18V を気にする。何層にも積み上げられたアンプ。その荘厳さは時に宗教にも例えられる。ラウドは正にその巨大さでノイズの概念すら包括し、甘美なノイズ、心地の良いノイズとも言われてきた。しかし、本来のノイズはそのようなものではない。ノイズとは「1 耳障りな音。騒音。雑音。特に、電話・ステレオ・テレビ・ラジオなどの電気的雑音。2 コンピューターで、電気信号の乱れ。また、それによるデータの混乱など。3 デジタルカメラやビデオカメラなどで生じる画像の乱れ。搭載するイメージセンサーの回路実装に起因する場合、暗部に本来ない色(偽色)が発生したり画像にざらつきが生じたりする。長時間露出や高感度撮影をすると目立つことが多い。ほかに、画像処理の過程で生じるモスキートノイズ、ブロックノイズがある。4 アナログテレビで、電気信号の乱れによる画像の乱れ。画面全体に生じる白く小さな多数の点。→スノーノイズ」(1)というものである。本文では1がそれに値するだろう。まずノイズは甘美ではない。心地よくもない。耳障りな雑音(騒音)なのだ。不均衡で不安定で不快感を覚える音である。大きな音というのは副次的なものに過ぎない。真にノイズな音楽とは「あってはならない音」をそこに生み出し、あらゆる均衡を打ち破り、人からのけ者にされるものではないだろうか?昨今の「ハーシュノイズずっと同じ音ならしてばかり問題」もノイズをやるならもっと真剣に取り組むべきである。それは均衡をノイズの中に創り出すものであるからだ。私が日頃「ノイズにはジャンルを増やすべきではない。」と説いているのもノイズが固定化された「名付け」によって均衡を得てはならないと考えるからだ。我々は神のように名付ける事ではなく、この世界の均衡にノイズをもって歪みを産むのが本能ではないか?そのような無意識的なある種のシュルレアリスム的なリアリズムがノイズをやる人間には求められていると思う。我らの固定化された夢想を織り交ぜた現実は、決してラウドの下にまとめられるものではない。我々はそのような「ラウドの侵略行為」に対して断固として立ち向かわなければならないのである。音が大きいことはノイズである事とイコールで繋がり得ない。これは実に重要な考えである。確かにノイズを志向するアーティストが大きな音(ラウド)を求めたのは事実である。それはラウドに一定のノイズ的効果を見出したのもあるであろうが、それだけでなくノイズという不快な音を共有した「不快感の共同体」を観衆(オーディエンス)に見出そうとしたからではないだろうか?つまりラウドの有する「包括性」がノイズの「排他的な攻撃」によって逃げ惑う観衆(オーディエンス)を一定の領域に留め置き、そこで集中的に攻撃できる「ノイズの屠殺場」を創ろうとしたのではないか?と私は考える。無論この考えは、歴史的な部分においてずっと明確に区分されてきたものではない。しかし、昨今のノイズに蔓延る停滞感を打破するためには、この癒着を断ち切る新たな歴史観が求められると思う。

2章:ノイズの反抗(ではどうすればよいのか)

この癒着(ラウド=ノイズ)を断ち切る方法は、ノイズの等式にサイレントを代入する事であろう。つまりサイレント=ノイズ足り得る音楽を創造する事がノイズに新たな展開を生み出す方法である。これは例えばジョン・ケージの「4'33"」の様なものであるかもしれない。意図と無意識がどの程度ノイズでありノイズでないのかには疑問符が残る(ここはいずれかで検証しよう)が、静かな状態を打ち破るような音もある種ノイズと言えるだろう。沈静化を促すグリッジノイズとは異なる性質の音である事は言うまでもない。前章で述べた通り、不快感を生じさせなければそれはノイズではないからだ。また、差異の強調という面から、ラウド-サイレンス-ラウドという式を当てはめてもいいかもしれない。しかし、これはあまりいい結果を示さないだろう。なぜならば、この等式は一種のエモーショナル的感性を与えるからだ。エモーショナルという至高感はノイズには求められない。不快感と相反するからだ。むしろ抑圧された音の方が、展開を得られない不快感を想起させるため宜しいと考えられる。不快なものを音楽で昇華させるのではなく、「老齢なモグラ」のように地下にくぐもらせる、このシュルレアリスムに対抗したバタイユのマテリアリズムの考えを私はノイズにも持ち込みうると考える。するとここで矛盾が生まれるのだ。つまり私はノイズの停滞感を打ち破る手段として、ラウドと癒着を断ち切る為にノイズとサイレンスを結び付けようとした。しかし、そこで待っていたのは退屈(倦怠感)なのだ。この矛盾を残しておくのもノイズの不快感かもしれないが、音とは関係がない。よってこの矛盾は解決されるべきである。まず、ノイズをより過激にするという手段がある。これにより、停滞感を狂乱へと持ち込む事は可能ではないかと考える(度数の強いお酒のような)。あるいは、ノイズを不自然的に組み込むことで、抑圧(沈静化)された音の展開にノイズ的パッションを見ても良いかもしれない。これは成立したものを乱すという意味でノイズ的なものとなり得るかもしれない。全ては作られなければ分からないが、我々は思考の段階である程度のノイズをもたらすことが出来る。

終章:結びに

これは観念のお遊びである。結局ノイズとは遊戯でしかない。戯れは今の管理された世の中では邪魔なものであるだろう。しかし、これに戯れる余裕のない者は、ノイズをやる者としては難しい壁に当たると思われる。この思考筆記の戯れの中で、私はいくつか重要な概念を提示し、また具体的な手段も列記した。また、ノイズについての雑記を以前記しているので、そちらも参照していただきたい。皆さんは私の乱文のせいで酷く頭を混乱させたかもしれない。しかし、このノイズを吟味して初めてノイズの甘美さ(笑)が導かれるかもしれないと思っておこう。ともかく、この文章を最後まで読んでくださった方には感謝しかない。大変ありがとうございました。

引用:(1)https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%82%BA/

(2022/1/30確認)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?