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小6のわたしは、全校生徒の前で叩かれた

わたしは小学校6年生のとき、全校生徒の前で担任の先生に頬を叩かれました。なぜ叩かれたのか、その後何があったのか、長い長い教育のものがたりです。

名刺案

転校したら、子どもが伸びる魔法の言葉をかけられた

わたしの生き方が決まったのは、小4でした。
当時、「決まった!」と思ったわけではなく、思い起こしてみるとそのときだった、という感じです。

わたしは、父の仕事の関係で2年に一度は転校を繰り返していました。小4のとき、北海道の倶知安町から福岡県久留米市に転校しました。当時は、特別、変わったことも特技もない、おとなしくも活発でもない、何も目立つことのない、ただの小4女子だったと思うのですが、なぜか、担任の先生は、転校早々、わたしのことをとても買ってくれていました。

「お前はよくできる子たい。」と言われ、心の中では「先生は何か勘違いしてる。わたしはそんなにお勉強のできる子じゃないのに。」と思っていましたが、期待されると嬉しくて、成績がどんどん上がり、先生の言う通りになりました。
「リーダーになる子」とか「センスの良い子」というのも言われました。

小4の子どもを表現する言葉としては、意味がよく分からなくて、あまりピンと来ていませんでしたが、「なんか、すごく特別なことで誉められている」感じがして、それに応えたい、という気持ちが強くありました。

人前に立つような経験もなかったわたしでしたが、先生に言われたことが嬉しくて、代表委員会か何かのとき、初めて知らない大勢の子の前で、挙手して自分の意見を言いました。ものすごくどきどきしました。上手に話せなかったのに、なぜか、自分が思ったことを言い切れた、という手応えがありました。

とはいえ、特別に素晴らしい意見が通ったわけでもなく、あっさりと、わたしの出番は終わりました。言わなきゃよかったかも、という思いも頭をよぎりました。

そうしたら、終わった後で、先生が「隣に立っとった先生が、あれは誰や、とお前の名前ば聞かれたたい。言っとることはよくまとまっとらんが、言葉に勢いがあるっち言いおったばい。」と言われました。これまた独特な褒め言葉で、意味がよく分かりませんでした。でも、なんだか、自分自身をそのままストレートに認められた感じはありました。それに、先生がそのことを誇らしそうに言っているのを嬉しく思いました。

指名される

5年生のとき、卒業式で、体育館の放送席でナレーションを読む係になりました。

なぜ決まったかというと、クラスで「奥田(わたしの旧姓)しか適役はおらんと思うたい。」と言って、先生が決めたからです。

そういうことがクラスでよくあって、先生は、「他の先生からは、おれはえこひいきをすると言われとるとばってん、これはえこひいきやなか。適任を選んどるだけたい。」と言っていました。

わたしだけではなく、さまざまな分野で適任者を先生が選ぶことや、多数決やくじ引きだけではなく、本人の希望や意思の強さなどで話し合って決まることが多くありました。

最初に先生が指名してくれたときは、「理由は分からないが、先生が言うのだからそうなんだろう。」と思っていましたが、練習のとき、放送席から体育館に響き渡る自分の声を聞いて、「自分の声じゃないみたい。すごくきれい。」と思いました。
読んでいるうちに、どう読めば聞き取りやすくなるか、だんだん分かってきました。
クラスの子が、「奥田さんの声がものすごくきれいかったよ。」と言ってくれました。
「わたしもそう思った。びっくりした。」と言いました。

放送席には、他のクラスの子も何人かいました。わたしが何か話したとき、困ったような顔で、顔を見合わされたときがあって、担任の先生が「お前の話が幼稚かとたい!」と大笑いして言いました。
いわゆる「サムい」感じだったと思います。
クラスではそういう反応を味わったことがなかったから、何が起きたのかよく分かっていませんでした。
あのまま、もしかしたら、いじめられてもおかしくない状況だったかもしれませんが、先生が常日頃から、(おそらくわたしだけではなく、クラスひとりひとりの)良いところをはっきりと言葉にしてくれていたので、怖じ気づくこともなく、わたしは堂々としていられました。

他にもいろいろなことを任されましたが、このナレーションのことは、自分でも上手だったと、特に強く心に残りました。
その後、ナレーションを読む機会なんかしばらくありませんでしたが、「わたしはナレーションが得意。いつかまたやりたい。」と自分で思っていました。

勘違いリーダーの誕生

そんな感じで先生に誉められ、任命され、いつの間にか、自分で自分のことを「わたしが率先してリーダーにならないと。」と思うようになりました。
そうは言っても、最初からその器だったわけでもなく、稚拙な小学生の判断ですから、とってもアンバランスでした。

思いやりを持った行動ができた場合もあれば、自分中心でワガママを通そうとしたこともあったと思います。
友だちとももめたりケンカしたり、けっして、優秀なリーダーではありませんでした。

だけど、ざっくり大きく捉えると、おおむね、みんながわたしの発案に協力してくれて、クラス全体が動いていたように思います。

今思うと、先生が、クラス全体をどうまとめていくか、本当に上手にひとりひとりに声をかけていたからだと思います。
当時は、「わたしの力だ。」と勘違いしていることもありました。
みんなが賛同してくれたことは、正しいことなんだと思い込んでいるところもありました。

あるとき、クラスの子が転校することになりました。

わたしは、音楽室の音響デッキを使って、ひとりひとりのメッセージをカセットテープに録音してプレゼントすることを思いつきました。
先生の許可を得たのかどうか、それも覚えていないくらい、勝手に計画を立て、勝手に他の子の協力を得て、どんどん進めていました。

とても良いことをしていて、自分は間違っていないと信じ込んでいました。
それで、いよいよ転校が近づいたのに、カセットの完成が間に合いそうもなくて、何を思ったのか、わたしは全校集会をさぼって、クラスの仲間数人と編集作業に没頭していました。

全校集会よりこっちの方が大事だと言い切っていました。

集会が始まってだいぶ経ってから、仲間を引き連れ、わたしは堂々と全校生徒が座っている校庭に現れました。
自分は正しいと信じているから、先生のところに行って、「大事なことをしていたから遅れました。」と平然と言いました。

・・・そしたら。

全校生徒の前で頬を叩かれた

ずっとわたしのことを誉めてばかりだった先生が、とても怖い顔をして、「◯◯の時間やなかとぞ!」と言って、わたしの頬をパァン!と叩きました。◯◯がなんという言葉だったかはよく覚えていません。
遊びだかお楽しみだか、そういう言葉だったように思います。

一瞬のことで、何が起きたのかも分からないほど、すごい衝撃でした。
頭が真っ白になって、わたしは鼻血を出して、大泣きしながら保健室に寝かされることになりました。

「なんでわたしが叩かれなくちゃいかんと!遅れたのはわたしだけじゃなか!悪いことしてたわけやなか!」という思いが頭をぐるぐるして、いつまでも泣いていました。

すると、全校集会が終わって、先生がやってきて、わたしの寝ているベッドに腰かけました。

「痛かったか。」と言って、頭をなでました。

「なんで。なんで。わたしだけやなか。」という思いがまだぐるぐるとしていました。
しゃくり上げて泣きました。

先生は、静かに次のようなことを話してくれました。

おまえはきっと、将来、人の上に立つ責任者の立場になる。
責任者というのは、えらそうにあぐらをかいて、自分の思い通りに人を動かすのが仕事ではない。
おまえは発言力があるのだから、弱い立場の子のことをいつも考え、代わりになって発言してやれ。
大勢の人を引っ張って、影響を与えて、動かすということは、何か問題があったときには、おまえひとりが叩かれることもあるということだ。
それが責任者の仕事だ。
その姿を見て、部下は「二度と同じことをすまい。」と学ぶんだ。

今、こうして文字に起こしてみると、あらゆることに通じる、ほんとうに素晴らしい教えですが、当時、小学生のわたしに理解できるはずもなく、「そげんこと言われたって知らん!将来のことなんか分かるはずなか!」と思っていました。


・・・ただ、「ものすごいことを言われた。たぶん、すごいことを。覚えていなくちゃいけないことを。」と、強烈に思いました。


その後、先生は、わたしのうちに来て、「今日、佳織のほっぺを叩きました。」と謝罪されました。
うちの父は、「いやぁ、あいつは叩いたってどうっちゅうことはありません。先生の思うようにやってください。」と言いました。
わたしは、そのやりとりを、どちらに対しても「ふん!」という気持ちで部屋から聞いていました。
大人の思いみたいなものは、受け取らないといけないような気がしていました。
だけどまだ受け取りたくないから、「ふん!」と。

後日、先生が「職員室で、他の先生方から、あれはやり過ぎやと言われた。」と話していました。
わたしが卒業するまで、いや、卒業した後の年賀状のやり取りでも、ずーっと、「佳織のほっぺを叩きましたね。痛かったね、ごめんね。」と書いてありました。
その頃には、「なんでそんなにいつまでも言うんやろう。もういいのに。」と、自分のことを振り返ることもなく、「許してやったのに。」くらいの気持ちでいました。

教育と共に生きる

そのあとの人生で、わたしは、この言葉をイヤというほど体験することになり、そのたびに、「責任者だからわたしだけがこういう思いをしなくてはいけないのだ。」とか、「今、弱い立場の子は誰だろう」とか、考えを呼び起こされました。

先生とは、6年生でまた転校することになって以来、一度もお会いしていませんが、この「先生の教え」は、常にわたしの隣にずーっと寄り添って、逃げようのないわたしの正義感みたいなものを監視していました。
知らんふりして自分をごまかすことのできない監督みたいでした。

先生の予言通り、わたしは責任者の立場になることがどんどん増えました。
「弱い立場の子」に目をやるように気をつけていたら、それがいつも「少数派」であることに気づくようになりました。

高校生のときに、先生から「奥田は打ち上げ花火みたいなやつだ。奥田の言ったことにみんなが食いついて影響を受けて、感化される。でも、当の本人は打ち上がるだけ打ち上がって、すぐに次のことを始める。」と言われたことがあります。
また、会社に入ってからも、「発言に力があるから、自分の影響力に注意した方がいい」と言われました。

おそらく今でもその特徴は変わっていないどころか、ますますはっきりとしてきているように思います。

つくづくすごいのは、そのことを小4で既に見抜いた先生がいた、ということです。

良いことだけではなく、「この子がこのままの性格でこのままのやり方を貫いたら、きっとこのような問題が起きるだろう。」ということまで想定して、最初からどかんと太い五寸釘を刺した。

まだ柔軟な子どものうちだったから、あのときに強烈な刺され方をして、その後、同じようなことがあっても「また刺されたけど、反省してやり直せばいつか傷は癒える。責任者だから甘んじて受け止めないと仕方ない。」と思えるようになった。
責任者になりやすいこと、発言力があることなどを、自分の特徴として覚悟して受け止めることができるようになった。

きっと、話しているときは、のれんに腕押しというか、分かってるんだか分かってないんだか、キョトンとした顔をしていただろうと思うのです。
そんな小学生に向かって、ずっと先を見据えて、大事なことを伝えてくれるには、先生だって、相当な覚悟が必要だっただろうと思います。
この指導が、この子にとって、どう出て来るか、どう生きて来るか、はたまた、このことで潰れてしまうか、誰にも分からないわけですから。

それでも、先生がわたしを信じて、ものすごく大切なことを伝えてきたのだということは、幼いわたしにも気迫と覚悟で伝わって来たのですね。
このビンタ事件が、これほどわたしの人生に影響しているとは、両親もまったく思っていないと思います。

だから、「あのときは先生は叩いたが、あの指導のおかげでうちの娘は・・・」ということも思っていないだろうし、「先生は正しかったですよ。」と、誰も証明も証言もしていない。
職員室で非難した先生方に言い訳も立っていない。
今でも「良かったのだろうか。」という思いは先生の中に残っているだろうと思います。

「信念があれば子どもを叩いていいのかどうか」という議論は、ここでは論点がずれるので避けたいと思います。
それはもう、起きてしまった事実なのであって、わたしにとっては良い方向へ繋がったという結果が分かっているから、「叩いて良かったのだ」とも言えるし、「叩いたからこそ良かったのだ」とも言えるし、「いや、叩かずにこうすればもっと良かったはずだ」とも言えます。
結果が分かった後からなら、誰でも何とでも言える。

教育の難しさは、どうなるか分からないし、ベストかどうかも分からないことを、とっさの判断でやるしかない、というところにあると思います。

「目の前のこの子のために、確証のないところへ飛び込んで実行する」という覚悟が子どもを突き動かすのであって、正しいかどうか、批難を受けないかどうかを気にして選択を迷っている時点で、子どもはその大人を甘く見ると思います。

そういうところは、本当に子どもはシビアに大人を観察しているのではないでしょうか。

先生がうちに謝罪に来たとき、わたしは、「うちの親は、こんなことを大きく取り上げるような優しい親じゃないから、言っても無駄。あとで叱られるから、先生、言わないで!」と思っていました。
先生は、そのことが分かっていたのかどうか、「なぜ叩くに至ったか」ということは一言も説明しませんでした。
わたしが全校集会をすっぽかした、ということは、両親の耳には入らなかったのです。

そして、わたしの両親の良かったことといえば、その後、この件について一言も私と話さなかった、という点です。

慰めてもらえないのは当然ですが、「なんで叩かれたのか」とか「叩かれてどう思ったのか」とか、何ひとつ問いただされませんでした。
おそらく、親ですから、娘が相当な打撃を受けていること、自分でそれを受け止めようと必死で考えていること、親にも言いたくないと思っていることなどは分かっていたと思います。

もし、あのとき、両親が、自分たちが納得するために、わたしに根掘り葉掘り説明させようとしていたら、そりゃあ、まだ消化もできていませんから、あれこれ、小学生なりの乏しい表現力で、自分に良い方向へ話しやすくストーリーをねじ曲げたと思うのです。
そして、両親がその「都合良いストーリー」に相づちでも打ってくれようもんなら、力を得た気になって、「わたしは悪くない」という方向へ行ったと思います。
その方が楽に決まってますからね。

徹底的に自分を振り返るに至ったのは、その時間と自由が与えられたからだと思います。


結果の確証がなくても、自分が「この子の将来のために」と信じたことを、信念を持って伝えるということは、教育者として背負わないといけない責任と覚悟なのだと思います。
そして、本当は、親だってそうだと思います。

今、わたしも、子どもたちにとって、そうでありたいと思っています。

*   *   *

教育とは、強烈な問いを投げかけ、人生の中に正解のない答えを探すという使命を与える行為かもしれません。

たとえ接点がなくなっても、ずっと心に生き続ける。

現代の子育てや教育は、先に答えを教え、従わせるものが多すぎると思います。だから親は最初から正解の方法を知りたがります。

問いだけ与えて、その先を子どもに任せることが不安だからです。

それでは「どんな時代も生きぬく力」は育ちません。

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