のら庭っこ便り#015 2023 8/20-8/27 弐 跳ね回る奇跡
※この記事は、虫の写真がテーマです。苦手だけど慣れたい方に向けて、風景的に撮っています。
命がにぎやかな季節は、その受け渡しもにぎやかな季節です。
生きるか、死ぬか。
生死を分けられたものとして見ていた世界、
それがひとつのうねりを特定の観測点から見たときの転換点にすぎないと実感するまでには、
光もあれば影もある、清濁合わせ飲むというような、
この分けたものの両方の価値を認める時期と、それを重ねて混ぜ合わせる時期を通ります。
このパースペクティブの移り変わりは、写真の撮り方から振り返ることができて、
20代のときは「分けたものの価値を認める」が主題になっていました。
30代のときは、親と子の世界の違いが行き交う、「重ねて混ぜ合わせる」ことを試みていて、
今は、そこを管理する人間というパースペクティブから見ると、「害」虫に見える生き物たちを、一旦その立場を忘れて虫と出逢い直すという運動をカメラを通してしているところです。
今回は、そんな運動のさなか、命の受け渡しの瞬間に遭遇しました。
撮るときに言葉はいらないのですが、日記にするには、その印象のまとまりを言葉で切り取ることが必要です。
写真というフレームで切り取った曖昧なものを、言葉で更に切り取ることは、写真という媒体の力を削ぐことであもり、恐ろしさを感じているところでもあります。
でも、怖いもの見たさという衝動もあるわけで。コントロールできないところに身を任せるのは、表現活動の楽しさのひとつです。
というわけで、どんな言葉が見えてくるのか、自分のなかでもよくわからないまま、書いてみようと思います。
カメムシの記事を仕事で書いて、カメムシにも肉食の種と草食の種があり、
大半の種は1センチ以下と小さいため、人間にくさいとか、害虫として迷惑がられている種もごく一部にすぎないと知ったのですが、
自分と出会った存在が、マジョリティでないのにもかかわらず、それ全体の評価として経験してしまうことは、虫に限った話ではないなあと思いました。
「男ってさあ」「女ってやつは」というとき、
「最近の若者は」「上司ってなんで」っていうとき、
「やっぱり東京の人は」「これだから田舎もんは」っていうとき…
「女」「男」「若者」「上司」「東京の人」「田舎もん」という、純粋にはどこにも存在しない、自分の頭のなかのイメージにピントを合わせていて、
目の前にいる出会っている相手を前ボケにしてすり抜けてしまっているのかもしれません。
と、写真を振り返りながら思いを馳せましたが、8月下旬、最も印象に残ったのは、のら庭で脱皮中のバッタをみつけたことでした。
ショウリョウバッタは生涯で4〜6回ほど脱皮するそうですが、歩けばどこかでバッタがはねるくらいたくさんいても、脱皮の瞬間に居合わせることは稀です。
だから、ついついうれしくなって、じろじろ観察してしいます。
前に見つけたときは、お祈りをするように手(ならぬ足)を合わせてぶら下がるように脱皮していて、最後は抜け落ちたと思ったらぴょんぴょんどこかに行ってしまったのですが、
今日は、なんだか様子がおかしい。
ポトリ、と抜け落ちて、そのまま横倒しになっていました。
え?どうしたんだろう?
そう思っているうちに1匹のアリがバッタを発見。
バッタの上にのったり、足を引っ張ったり、餌として巣に持ち帰ろうとする様子を見せました。
脱皮後に残った殻を手に取り、メガネを外してじっと目を凝らすと、緑色のものがわずかに殻のなかに残っているのが見えます。
どうやら、ショウリョウバッタは、脱皮に失敗したようです。
陽の光に当たって乾けば、足が一本動かなくとも生きていけるかもしれません。
おせっかいにもわたしはアリを追い払い、バッタを起こしました。
しかし、少し草整理をしてからバッタの元に戻ったとき、
バッタはたくさんのアリに囲まれており、ほとんど動かなくなっていました。
アリとバッタの間であまりにもすみやかに命が受け渡されていくさまを見て、残酷さよりも不思議さに圧倒されてしまいます。
そうしたやりとりのほんの少し先には、別のショウリョウバッタが「よくあるショウリョウバッタの様子」で体を休めていました。
気の毒にも脱皮に失敗したバッタとの遭遇。そのときは稀な瞬間に立ち会ったように感じました。
でも、それは本当にそうだったのでしょうか。
これも仕事で取材するなかで知ったことなのですが、昆虫はたくさん卵を産む種ほど、数が増えやすいのではなく、生存率が低い種ほど卵の数が多いのだということ。
たとえば、ひとつの卵嚢に200〜300個の卵を産むカマキリの場合、成虫になるのはわずか4%といいます。
ショウリョウバッタは土中に産卵するため、正確な産卵数はわかっていないそうですが、わたしたちがその虫の「あたりまえの姿」として出会っている虫たちは、実はその種として生を受けた全体から見たら、稀な例であるかもしれないのです。
どんな言葉が指からこぼれるだろうと、頭を真っ白にして書いてみた今回。
なんだかやっと、この受け渡しとの遭遇を消化し、飲み込めるような気がしています。
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