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「手を止めて聞いてあげる」ができない理由

いろんな育児のあり方を耳にするたび、「それは無理でしょ」って思うアドバイスに色々遭遇してきましたが、いかにそれが変わりたくない自分への言い訳と言われようと、これは出来ない相談だな、とよく思ってしまうのが、

「手を止めて、目を合わせて、子どもの話を聞きましょう」

という美しい母の姿の提案です。

もしも子どもが話しかけてきたら、「後でね」と言わず、家事する手を止め、子どもの目線まで体を下ろし、目を見て答えてあげましょう、と言うのです。

この提案を聞くたび、わたしは心が重苦しくなります。だって家事中に声をかけられた時に心からそうしたいと感じる瞬間はほとんどないし、

そうやって話を聞くことで子どもが満足し、数分で家事を戻れるような内容であることなんかほとんどないからです。

それどころか、うちの場合大抵は原因は兄弟ケンカなので、双方の言い分を全部聞いたところで、その内容にさらにもう一方が文句をつけるなど、事態が悪化することの方が多いのです。

これは個人的な印象ですが、「子は親の鏡」という言葉は、人格だけでなく、メンタルの状態も表してると思っています。

急いでいるときほど、こどもたちは予期せぬトラブルを発生させたり、無理難題を要求して暴れ、

夕方の疲れのなか、明日の学校や園に備え、早く寝せるためにしなければいけないルーティンをハードル跳びのごとく次々全力でクリアしようとするときに限って、兄弟ケンカが繰り広げられる。

そしてまさに戦場・・・な有様になってしまうのですが、

ちょっと俯瞰してみると、これは親が切羽詰まっていて、必死で、余裕がないからこそそのムード、ヴァイブレーション、空気、とかいうものが子どもにも伝わってスパークしている状態、とも捉えることができるわけです。

そういうルーツがあって、「子どもの訴え」が発生していることが、日常の生活の大半を占めているのですが、

その場合、「手を止めて、目を見て、子どもの話を聞く」というのは、冷静に考えてみると、今まさに猛っている狼に噛まれた子の傷を、その狼に舐めて癒してもらおうってくらい無理な話なんですよね。

これはおそらく「外の世界でのトラブルを抱えて子どもが帰ってきたとき」、そのサインを見逃さずに、ちゃんと受け止めてあげましょう、って話だったのが、

いつの間にかそのTPOの条件が無視されて、「いつでもどんなときでも」適応可能な子どもへの態度として伝わってしまったのではないだろうかと思っています。

確かに、いじめなどの重大な訴えはタイミングを見誤ると、言えなくなって「やっぱなんでもない」となることもあるので、直ちに手を止めて向き合うことは必要だと思います。

まとめサイトや刺激的な本のタイトルがそうであるように、注意を集めるためにあらゆるものをいくつかに絞ってリスト化する手法が当たり前になるなかで、

「適用条件」を無視してインパクトのある一つのセンテンスに要約されてしまったがために起きた事故のようにも思われるのです。

このような「理想像」って母親像に限らず、他にも色々あると思います。

もしもあなたが、「そんなん無理!」って思えるお題目に出会ってしまったがために、「自分はそれができないダメな人間なんだ」という思い込みにとらわれてしまうようなことがあったときは、

自分のなかで、「こんなときならできる」という条件を探してみてください。

そして、その条件を満たすために必要なことをまずはしてみてください。

わたしも色々悪あがきして、気分によってすぐに聞いたり、後回しにして聞いたりしてきましたが、我が家の場合は、子どもが被害者意識そのものになって、大声でヘルプを呼んできたときは、問答無用で落ち着いてからにしてもらいます。

だいたい、こっちも切羽詰まっているが多く、怒りは元気の証(なぜそう思うかはこちらの記事参照)なので、少し落ち着いてからの方が話ができて、すぐに円満にまとまるからです。

逆に、悲しそうだけど泣いてはいない、ようなときは声をかけようと思っています。

なぜ、「思っています」かというと、幸いにして今のところ、外でのトラブルの時はまだ素直に訴えてくれるので、こちらから察する必要があることがほとんどないからです。

これは、「小学生の低学年と高学年のタイプが違う女子同士VS母親」という構造という「適応条件」あっての「今のところの」最適解

なので、他所様でこれがうまくいくかはわかりませんが、少なくとも、あらゆる「かくあるべし」を「いつでもどこでも」適用させて、苦しむ必要なんかないってことが、伝わったらうれしいです!

本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました!



自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。