【34. 前触れ】

その夜…
ベッドで2人は愛を確かめ合った後…。
「いいのに…寒いから…」
「あ、うん、大丈夫。」
ドア越しにKiss。
「じゃ…行ってくるね?」
「うん…行ってらっしゃい」
いつものように、小さくなってゆく彼の車を彼女は階段の下で見送った。


…は~…
独り、長距離を運転する彼が深い溜め息を吐く。
─これで何度目になんだろ…─
…はぁ…
と、もう一度…。
「幸せが逃げるから、溜め息吐かないのねっ?」
「は~い…」
─彼女にいっつも言われてんのになぁ…─
幾ら大音量で流れる音楽に合わせて大声で歌っていても、いつの間にか口元を
…キュッ…
とキツく結び、物思いに沈む彼…。
─流す曲が良くないのかぁ…?─
とCDを入れ換えても結果は同じ。
どうしても、考え事をしてしまう。
いつも以上に…。

彼女の傍を離れると…
─お昼休みとか…
仕事終わりとか…
俺にメールくれた後とか…
カレと電話したりとかしてんだろうなぁ…
また逢う約束…すんだろうなぁ…─
彼はそんな妄想を抱き、不安に駈られてしまう。
これまでもそうだった。
少しも珍しいことではない。
しかし、その夜は…
─ヤバい…度を越してる…─
と自覚するほどに、彼の心は狼狽[うろた]えていた。

本当は“一緒の2連休”…だった今回の予定。
それが、急遽彼だけは仕事の都合で一日後ろにズレ込んだ。
そのせいで…
2人で楽しく過ごすつもりだった休日の前夜を、彼女は別の人と過ごしていた…。
選[よ]りに選って、一番一緒に過ごして欲しくない相手と…。
“カレ”
というフットワークの軽い控え選手が
“彼”
の代わりに待ち構えている…
突き付けられた現実…。

─カレ以外なら…
誰と浮気したって構わないのに…─
彼はそう考えていても、彼女が逢うとしたらカレしかいない。
彼女は…そういう人。
ある意味…一途[いちず]。
それが解っているからこそ、苦しい…。

これまでもずっと…
チラ付くどころか纏わり付いて離れないカレの影を身に染みて感じてきた。

「それ…いつまで飾っとくの?」
もう既に随分前に枯れ切った鉢植えの花。

「あれからまた増えてんじゃん!」
チェストの中で増殖するDVD。

「ごめん…遅くに…」
あの日…暗闇の中、カレと彼女が一緒にいたベッドの上。

「こないだカレとどこ行ってたの?」
擦れ違う、それか…隣に並ぶ黒いセダンは全てカレの車に思え、つい助手席を見てしまう癖…。

それだけじゃない。
─彼女が着てる服だって、カレに買って貰ったものかも知れない…。
あの大事に飾って置いてあるあれも…これも…全部そうなの…?─
彼の知らないあらゆる物が、目に付く度に鼻に付く。
─訊けば済むこと…─
そんなのは解っている。
でも…
─もし仮に…それが本当にカレとの想い出の品だったとしたら…?─
そう考えると訊くに訊けない。
出来れば…聞きたくない。
実際…
「ごめん…
それ…大事なものなの…
動かさないで…」
そんなこともあったから、余計に…。
だからといって、それらの存在を否定するつもりはない。
だからといって、
彼女が、悪い…
とか
カレが、悪い…
と責めるつもりは全く無い。
彼女が許せない…
とか
カレが許せない…
とか、そういうんでもない。
─そう思えたら…どんなに楽か…─
許せないのは…
─俺って…彼女を信じられてない…─
そう思う自分自身…。

どう足掻こうと、彼女の…カレへの想いを矯正することなど出来るものではない。
人の気持ちなんてそういうもの。
彼女がどういう気持ちでカレと逢っているのか…
は、正直なところ解らないが、彼にそれを咎める権利はない。
仮に法律上、内縁の夫婦として認められ、その権利があったとしても、彼にはそんな気なんて更々無い。

付き合い出した当初は…
─カレなんか、俺が忘れさせてやる!─
そう意気込んでいた時もある。
しかし、
いつしか心は折れた。
痛いけど…
苦しいけど…
出来なかった。
きっと…これからも出来ない…。
2人が知り合うずっと前から、互いに想い合ってきたあの二人は、本当なら…誰も割って入る隙も無いほどに、堅く、深く結ばれた関係だ。
─カレには敵わない…─
それに気が付いてからは
─もう…邪魔はしない…─
そう自分の中で言い聞かせて来たつもりだった。
彼女の気持ち“をも”、大切に思っているから…。
─それでもいい…
彼女と一緒に過ごせるんなら…─
そう心に決めた筈だったのに…
一昨日、
「もう…逢わないで…」
と、不意に口走った自分がここにいる…。
彼女の心からカレを忘れさせることなど出来なかった、どうすることも出来なかった自分の不甲斐無さを
示唆する言葉。
ここにきて遂に…
彼は敗北を宣言した。
自分が口にした言葉の意味に気付いた途端…沸き上がる後悔に蝕まれ、心からの溜め息をまたひとつ…。

彼女の気持ちを変えられるのは…
それが出来るのは彼女自身なのに…。
そう思うからこそ、尚のこと彼女の気持ちを大切にしたいのに…。
彼女の身も心も…全てを愛してる筈なのに…。
─自分の気持ちを優先しちゃってる…─

他人からどう思われようと、
─今も…これからも…カレを好きなら…それでもいい…
カレと逢うのも…
SEXするのも…
正直許せる…─
それが彼の考え。
なのに、
─カレと逢って欲しくない…
カレと別れて欲しい…─
とも思うその一番の理由は…
彼女が彼に嘘を吐くから。
嘘を吐いてまで逢っていることが納得出来ない。
─疚[やま]しいから?
別に気にしなくていいのに…─
「今夜はカレとお出掛けしようと思ってたからぁ、帰り遅くなるねっ?」
─そんな軽いノリで言ってくれれば…
安心してカレの元へ送り出せんのに…─
それが彼…。
─二人はどこにいて…
どんなことしてるんだろう…
どんなことされてんだろう…─
そんなことを想像し、悶々とすることで、興奮を覚えられる人…。
それは彼女にも伝えてきたこと。
彼女も解っている。
なのに現実は…
連絡を取っていることも、
カレと逢うことも、
カレと逢ってSEXしたことも黙っている。
─Hしてる時訊けば、答えるくせに…
どうすれば正直に言ってくれんの…?─

「付き合うんなら、何でも話せるような関係になろうねっ?」
─最初の頃…そう話してたのは誰…?─

これまで一度も、彼女のほうから正直に話したことはない…。
彼は、それでも彼女を受け入れてきた。
受け入れるしかない。
誰よりも愛してるんだから…。

それなら…
「バレないようにして!」
と言いたいところだが、それは無理…。
彼は、彼女とカレが一緒に過ごしたことを簡単に見抜けてしまう。
不憫にも、いつの間にかそんな能力が身に付いてしまった。
─まさか…バッグかどこかにGPSを潜り込ませてる…とか?─
彼はそんな手の込んだことをする人じゃない。
─じゃなければ…携帯の履歴見てる…とか?─
そんな素振りも一切無い。
もし仮に…眠っている間に覗き見られたとしても大丈夫なように、彼女は“履歴は全てその場で削除”を徹底している。
─じゃあ何…?
視線、表情、仕草、匂い、勘…?─
彼女が思い浮かべるそのどれか…ではない。
その全て…そしてその他、幾つもの違和感が複雑に絡み合い、彼に答えを導き出していた。
取り分けて如実に顕れる症状を敢えてひとつだけ挙げるとすれば…
彼を抱き締め返す彼女の、いつもとは異なる包容力…。
それが彼にとっては一番判断し易く、最たる確実な証拠。
いつの間にかそれに気付くようになった彼が、彼女を追及した際のこれまでの正解率は…なんと100%…。
だから、彼女が嘘を吐いても…
例え、黙っていたって…
彼を騙し切ることなどできない…。
カレと逢わない…
それか
正直に話すか…
彼女には、そのどちらかしか選択肢はない。
「逢ってもいいよ?その代わり…」
何度も繰り返し伝えてきたこと。
なのに…
─それでも彼女が言えないのは何故?─
その理由を考えてしまう…。

─余程、カレって素敵な人なんだろうな…
魅力的な男性なんだろうな…─
知る限りでは、彼女よりちょっと年上。
それと、大企業の社員…ということ…。
当然、高学歴に違いない…。
当然、高収入に違いない…。
─ついでに身長も高い…とか?─
一度…だけでなく、何度か…カレと擦れ違った時の記憶を絞り出す。
けれど、覚えているのは
─眼鏡は掛けてなかったなぁ…─
たったそれだけ…。
結局、彼は頭の中で彼女の理想の男性像…“カレ”…を思い描き、パズルを組み立てるように造り上げていった。
─きっと…
俺が知るカレよりも、カレが知る俺の方が遥かに多いんだろうな…─
確かな疎外感…。
根拠もなく彼はそれを感じていた。
そして、理想の男性像の足元にも及ばない彼は、こう考える。
─彼女が何でも話せるのは…本当はカレ…?
かも知れないな…
じゃ…
本当は…
彼女が誰よりも愛してるのも…
俺じゃなく…
カレ…
ってこと…?─
思いたくもない想いが込み上げ、気持ちを虚しくしてゆく。
けれど…
─自分には…
それだけの魅力も、度量も、器量も、甲斐性も、何の取り柄も無いし…
当然だよな…─
そう痛感し、落胆し、納得するしか無かった…。

─なら、あの日…彼女が自分をもう一度受け入れてくれたのは…何で?─
ふとそんな疑問が湧く。
─まだ愛してたから?─
しかし…ずっとカレとも繋がっているのは解り切っていること。
あの日のずっと前…出会った時から…。
そして、今も…。
その矛盾が、彼を余計に悩ませる。
─一体何で…?─
彼には…
彼女の想いを計り知ることは出来ず、ただ焦りと苛立ち、そして…最上級の不安が募ってゆくばかり…。
更には、後悔や劣等感で必要以上に自分を卑下し、
─俺なんか居なければ、“あんなこと”だって起きなかった筈だ…─
余計に落ち込む悪循環…。

─休みの度に…
仕事帰りに…
もしかしたら仕事の合間にも…
下手すれば部屋にまで連れ込んで…
逢う可能性…
逢ってる可能性も…
ある…ってこと?…だよね…─
そして…
そこからまた…振り出しへ…。
脈絡も無いままに次々に注がれる想いは、彼の動揺そのもの…。
バブルバスみたいに
…モコモコ…
と彼の中で膨らんでゆく。

漸く、群馬と埼玉の県境に跨がる橋に差し掛かろうとしていた頃、彼の車の灰皿はしっかりと根元まで吸い尽くした吸殻で溢れ、閉まり切らなくなっていた…。


その何時間も前…
今朝、車から見送る彼の姿を遮断した職場のドアの前…
同僚の冷やかしを同じドアで振り切り、職員用の駐車場の前…。
彼女の視線は不自然に辺りを伺っていた。
けれど、親指だけは自然に動き出していた。
押し馴れた11桁。
最後に通話ボタンを押し、木陰に身を隠すように蹲み込んだ。
そこで、漸く画面を確認する。
既に…
─《通話中》0:03…0:04…0:05…─
の表示。
「あ…もしもし…?」
「はいはい?」
「今、電話いぃ?」
「あぁ、うん、いいよ?」
「明日さぁ………」


2020/1/7 更新
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【参照】
この章には該当する語句はありません
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【備考】
本文中に登場する、ねおが個人的に難読な文字、知らない人もいると思われる固有名称、またはねおが文中の雰囲気を演出するために使用した造語などに、振り仮名や注釈を付けることにしました。
尚、章によって注釈がない場合があります。

《本文中の表記の仕方》
例 : A[B ※C]

A…漢字/呼称など
B…振り仮名/読み方など(呼称など該当しない場合も有り)
C…数字(最下部の注釈に対応する数字が入る。参照すべき項目が無い場合も有り)

〈表記例〉
大凡[おおよそ]
胴窟[どうくつ※1]
サキュバス[※3]

《注釈の表記の仕方》
例 : ※CA[B]【造】…D

A,B,C…《本文中の表記の仕方》に同じ
D…その意味や解説、参考文など
【造】…ねおが勝手に作った造語であることを意味する(該当のない場合も有り)

〈表記例〉
※1胴窟[どうくつ]【造】…胴体に空いた洞窟のような孔。転じて“膣”のこと

※3サキュバス…SEXを通じ男性を誘惑するために、女性の形で夢の中に現れると言われている空想上の悪魔。女夢魔、女淫魔。

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